「この人にお会いしたい」と思う人は、いつも既に亡くなっていたな。
西岡常一棟梁、カリアッパ師、マイケルジャクソン、福岡正信翁。「ああ、遅かった。」と、我がアンテナの鈍さを悔やみ、現代には偉人は生まれないのかと悲観にくれた事もあった。
だから偶然に古本屋で手に取った『土からの教育』を読んで感動した時も、もはや過去の人であろうと勝手に決めていた。念のためネット検索をするとまさかのご存命で「養生説法」という講演活動をされていると知った時には、PC前で思わず小躍りしてしまった。
そして今年の3月末、一族郎党を引き連れて著者である竹熊宜孝先生、通称クマ先生に会いに行った。結果としては熊本大地震の1週間前の訪問となったのだが。
私が心惹かれる人間は、どうも大自然と向き合っていることが多い。
クマ先生や福岡正信翁は農家。クマ先生は医師でもあるが、「百姓が医師をしているんです。」と仰っている。医師が百姓をしているのではないと。カリアッパ師は日本ではあまり知られていないが、少し昔のヨーガの大聖者である。ネパールのカンチェンジェンガというヒマラヤ山脈での過酷なヨーガの修行に生きられた方。西岡常一棟梁は宮大工。『木に学べ』などの著作に記されているが、木の心を想い、木の一本一本の個性を見極めながら寺社をくみ上げていった人。
共通しているのは、自然と真摯に向き合う中で、その奥にある「命」を感じ取り、その命を形に生かそうとしてこられたということ。
だからといって、たまに居る「花とお話しができる花屋さん」のような人たちと一緒にしてはならない。西岡棟梁も福岡翁も木や自分が土と話ができるとは決して言わない。
「そんな風に扱っては、木が痛い痛いと泣いちょります。」と西岡棟梁は時に若い大工に助言されたらしいが、これは木に思いやりをもって仕事をしてほしいというヒントであって、自然の命に奥深さに触れたものは、軽々しく自分がその代弁者であるというような振る舞いは到底できないものだ。
と、まるで本人の言葉のように言うが、もちろん勝手な私の想像。しかしあながち外れてはいないだろう。自然と人間の関係とはそういうものであり、それ以上には決してならないのだから。
さて話をクマ先生に戻そう。
今回の熊本義援金ツアーは、七ヶ月ぶりのクマ先生との再会でもあった。初めてお会いしたとき『土からの医療』そのままのクマ先生に触れ、「まだ現代にもこういう人たちが残っているのだ!」と勇気をいただいた。
それからの7ヶ月間、世界は益々危うくなっている。社会も刻々と不安を増している。それもそのはず、国家や社会の基盤となる家庭がとめどなく空虚な場になっていっている。
人は目先のお金と健康にばかり関心を持つ。健康でお金に困らなければ幸せに生きていけると思っている。
ばかじゃないか。
と言いたい気持ちをぐっとこらえて、いや時に口から飛び出したりしたこともあったような気もするが、どうやったら「本当の幸せ」に向かって語らい合えるだろうか、自分のおなかが発している命の声を聞こうとするだろうか、それを毎日毎日考え続け、鍛錬をし、本を読み、講演をし、整体をしてきた。この10年ほどはずっとそこに挑み続けている。そして跳ね返され続けている。
「俺のやっていることは無駄じゃないのか。」と虚しさに沈み、子供たちの笑顔を見て「下を向くな!」と己を鼓舞し、また沈みの繰り返しの日々が続いている。
しかし私なんてほんの10年ちょっと。私の今やっていることを、すでに何十年も前から続けてきたクマ先生は、一体どうお考えなのだろう。どうしてもそのお気持ちを聞いてみたいと思い続けてきた。
クマ先生の著書を読む限り、クマ先生もありとあらゆる方法で、人々に命の大切さを伝えようとされてきた。私なんかよりもよっぽどユーモアセンスに富み、人を楽しませるのが上手なクマ先生が、手を変え品を変え人々に語りかけられてきた。
しかしそんなクマ先生のこれまでの道程の中に、「ああ、自分の想いが伝わってどんどん広がって人々が変わっていく。」という感慨は見つけられなかった。むしろその行間からは、切なさやあきらめのようなニュアンスを感じることさえあった。
福岡正信翁からも同じ匂いがする。翁が晩年にインドを訪問されて人々にこう語りかけられた。
「私はもうやれることは全てやったんです。私はもう世界をあきらめているんです。」
そう言い切りながらも、その後にこう続けられた。
「しかしあなた達は、ガンジーの教えに触れたあなたたちは違う。あなたたちは自然の理を知り、この世界をより良くしていくことができるはずだ。」
絶望の中から希望を見いださんと、我が身を絞り上げるような生き方、その厳しさは経験した者にしか分からないはずだ。福岡正信翁の著書『わら一本の革命』の後半部など、苦しくて読めたものではない。
今回の再訪の際に、クマ先生にお聞きしようと心に決めていたことがある。クマ先生以外にこの質問をぶつけられる人が他にいないから。
クマ先生のご案内で養生農園を見せてもらった。クマ先生は自分たちの自然農法の畑と、隣の農薬まみれの畑を比べながら、命を見ようとしない人々について話された時、今だと思い、尋ねた。
「先生、人々はいつか気づきますか?人間は変われますか?」
反応がなかった。
先生は高齢ですこし耳が遠くなっておられる。聞こえなかったのかもしれないし、もしかしたら聞こえていたけれども・・・・・・
失礼を承知で重ねてお聞きした。私にはどうしても、生きている偉人の口から生きた言葉を聴きたかったのだ。
「先生、人は変われますか。」
「変わらんよ。」
一言だけ、はっきりとそう言われた。
しかしさすがはクマ先生。すかさず私の後ろを歩いていた権藤君を振り返ってこう言葉を重ねられた。まるで前の言葉を打ち消すように。
「それは彼ら若者が決める。彼ら次第だ。」
失礼を重ねるが、クマ先生の人生にあまり時間は残っていない。
私には、クマ先生よりまだ少しは時間があるはずである。
が、
クマ先生と私が見つめる未来は、あまりにも遠い。
・無呼吸重刀100回
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