照千一隅への道のり

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「弘晃の野望」


「私、実はゲーム中毒でね。」と言うと皆びっくりする。「まさか先生が!?」と。昨日もそういうことがあった。

そういう時は「私のことをなんと思っているんだ!」と言ってやる。人のことを、無欲で霞でも食って生きているかのように勝手なイメージを持っている人もいるようで、困ったものである。無欲な人間なんて人間ではないのですよ。


酒だって好きだ。

これは最近気に入ってる米焼酎。「水鏡無私」なんてなれるわけない。「酔狂無視」なら得意だけど。と思いながら吞んでいる。

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漫画も本当は大好きである。

漫画雑誌は1冊に絞っている。「キングダム」が面白い。始皇帝の中華統一戦記で、兵士たちの首がポンポン飛ぶ。そんな漫画を喜んで読むのも私だし、わごいちで弱っている人を助けようとするのも私。どちらも私。


ゲームは「信長の野望」に何度もはまった。

一度はまると1年くらい寝食を忘れて没頭する。まさに中毒の様相を呈するのである。この中毒のせいで何度も学業に支障をきたしたし、夫婦関係にも危機を招いた。これはいかん、このままでは人生駄目になると思って、20代でゲームは卒業した。

しかし中毒とは怖いもので、今でも「信長の野望」の広告を見るとウズウズする。死ぬまでこの小悪魔には付きまとわれるであろうと覚悟はしている。それが中毒というものだろう。

外にも私には中毒がまだまだある。いちいち言わないが、私のハラの中にはもっともっと大きな欲が渦巻いている。


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信長はやっぱり好きなので、本を読んでいる。『下天は夢か』。さすがの津本陽さん、面白い。賛否両論分かれる信長だが、そのスケールの大きさは群を抜く。そんな信長が好きだ。

信長は「天下布武」をスローガンに揚げた。天下を武力でもって一つにするという意味だ。

凄いな、と思う。自分がすることをちゃんと公言して、その道を粘り強く突き進んでいくことができた日本人がどれだけ居ただろう。今どれだけいるだろう。果たして自分はできるだろうか。



信長が「天下布武」と言うなら、私は「天下布撫」でいってやろうか。

天下を撫で撫でして一つにする。バラバラになりつつある社会を一つにまとめるというのはどうだろうか。



平成の「弘晃の野望」である。










三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-30 15:06 | 戯言

夢を共に

いやはや粘り強い人たちだ。


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井本亜紀さんは、紙鳶の幼馴染にして一番の親友。

子どもの時から、楽しい時も辛い時も二人共に歩んできた。時間が必要な時は少し離れた所から見守り合ってきた。そして今、二人は大きな目標に向かって力を合せることになった。


夫の忠男さんと私は5年前に出会った。足圧祭だった。

始めは亜紀さんと紙鳶経由のお付き合いだったが、いつの間にか二人で酒を飲むようになった。彼がどう思っているかは知らないが、今では一番の相棒であり、親友だと思っている。


井本夫妻は私のお陰で授かりを得たと言い、これから私と夢を共有することを心底喜んでくれた。実際の私の手助けはわずかばかりであったが、井本家が参加してくれるならば私にとっては百人力である。

今回の新しい協会は皆で作るものなので、外部の新しい風を入れたいと思う。これまで千照館で頑張ってきた面々と、外からの新しい面々と一つになって作っていきたいと思う。




今回の協会は、わごいちの女将である私の妻は入らない。敢えて外から見守ることになった。

そんな妻が、先日自分のブログにこんなことを書いていた(一部抜粋)。



25歳で結婚し、おそらく
28才くらいから38才くらいまでの 
10年間ほどで、そんな私の考え方を
主人がボッコボコに叩きのめしてくれた。

私こんなに頑張ってるのに、
なんでこんなに言われなあかんねん、
可哀想、ひどい、的な
被害者思想的な気持ちも
何か指摘される度にずっと思っていた。
10年、長かった、、、

自分が嫌われものになってまでして、
人に突っ込んだことを言ってくれる人は
なかなかいない。
つきあいが表面的になりがちな現代、
そんな人間関係をしている人達に会うことは
なかなかないと思う。

長年の主人の指摘と戒めのおかげで、
持っていた自分の自信とやらが、
笑えるくらいちっぽけで
確固たるものではないことに、
30代後半でやっと気がつけた。




「つきあいが表面的になりがちな現代」と今、妻は書いた。

「どうして俺と付き合うことにしたの?」と訊くと「あなたは言いにくいこともちゃんと言ってくれるから」と昔、妻は応えた。

妻も私も変わらないままやってきた。




皆が妻のようにはいかない。私の元を去っていった人も沢山いる。

そういう人達を思う時、ああもうちょっと上手くやってあげれなかったかな、と思う気持ちはある。しかし同時に、すねたりプッツンしたりせずに粘り強く付いてくればよかったのに、と思う気持ちがある。



どうやら私のような人間は少ないらしい。

そんな人間にせっかく出会ったのなら、何が何でもついてきたらいいのにと思う。私は自分がよく見えないが、外からは私と言う人間がよく見えると思うのに。



妻や参尽や紙鳶や井本さん、これから一緒にやっていく人たちと、わたしと粘り強く付き合ってくれる人たちと、私は私なりの誠意と夢を分かちあっていきたいと思う。




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(4/24 協会立ち上げ決起集会)







三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-29 14:00 | 協会

祭りの開始


昨夜は久ぶりに目いっぱい吞んだ。

3人で30分で一升瓶が空いた。

どうも最近の我々には勢いがある。


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わごいちの仕事が終わった後、弟子たちとプロジェクトの検討。一区切りついてご飯と共に酒を吞んだ。30分ほどで瓶を空け、またそれから各自の仕事に打ち込んだ。


世間は春祭りが盛んだが、我々もまた祭りを作るようにプロジェクトに打ち込んでいる。

大変だが面白いし、やり甲斐がある。







この現千照館の規範。4年間頑張ってくれた。

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◆第2条「目的」第3項

・腹育への取り組みの成果として得た力を社会に還元し、後世に貢献せんとすること。

いよいよこの条項が動き出すのだ。


◆第3条「役職」

この条項については抜本的に変わる。館主つまり私の専管が廃止される。館主が専管する「道場」から、会員で運営する「協会」に移行する。




以前から千照館が変わること、社会貢献活動に力を入れる事、資格認定をすること、丹足を世に広めていくこと、そのような方向を模索していることは書いてきた。

「今の日本社会は良い方向に向かっている」

と思う人がどれだけいるか?



そこが今を生きる我々の共通の課題ではなかろうか。



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新しい千照館の枠組みをつくる作業は既に始まっている。まず5名の立ち上げメンバーでアイデアを練りながら形を作っていっている。メンバーはもう少し増やす予定だ。


また丹足トレーナー/サポーターとして活動したいというセミナー生も気が付けば15人。彼らの出番もそろそろだろう。

皆で新しい協会を、新しい千照館を作る。






では予告をしよう。


5月1日に、新しい千照館の概略を発表します。

6月1日より、新しい千照館がスタートします。


現門人の皆さんも、丹足に興味がある皆さんも、社会貢献に興味がある皆さんも、楽しみに待っていてください。丹足を使って、我々の社会に向かってチャレンジをするのです。




祭りが始まる。

志を揃えて、想いをぶつけて、力を合わせる。

日本を元気にする祭りの始まり。












三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-28 21:58 | 仕事

その8.勝負どころ


修業を始めて9か月。異例の早さで開業が決まった。私も人の子、やはり開業はドキドキした。

とは言え、修行1年をめどに開業しようという考えは元からあり、人の3分の1の短さで開業する為には人の3倍の修業が必要という考えで準備はしていた。


修行の一環で続けていた出張整体は思いのほか反応が良かった。ほとんど確実にリピートしてもらえたし、毎週通った重症の寝たきりのおばあちゃんは小走りできるくらいまで元気になった。少しずつ経験と自信をつけていった。

最後の腕試しと、とある出張整体グループの採用試験をうけたら研修不要で即現場に出された。かつてない抜擢だったらしい。さらにいきなり支部長に任命された時はびっくりした。正直周りの評価にたじろぐことの方が多かった。




そうこうするうちに開業が決まり、「心斎橋たんりき」を開業したのは2002年の1月のこと。

桜井先生でさえ苦戦していた後を継いだので前途は厳しかったが燃えていた。人生で初めてもった自分の城である。人生で初めて人も雇った。会社員では決して経験できない人生に興奮していた。

3か月後には予約がパンクするほどの人気整体院になった。友人たちにも本当に助けられた。そしてやはりハラを揉むというのが当たったのだ。当時はカイロプラクティックが流行りで、ハラを揉むというと皆が変な顔をしたものだが、結果的には私の直感が当たったのだ。多くの人がハラに悩みを抱えてやってきた。深夜までびっしり働いた。



そんな折、縁談が舞い降りてきた。

「新日本延命医学療法」という凄い民間療法の先生が居るが、君の所にその先生を迎えて技術を伝承しないかと、そんな話を頂いた。

「新日本延命医学療法」(以後略して延命学)とは故宮原一男先生が拓いた民間療法で、その技術の凄さまじさは他に類をみないものだったと言う。ハラや脇や太ももを中心に全身を揉み解していく。松下幸之助もお客だったとか、温泉治療旅行についてきてもらった人が一晩で20万(戦後間もない時である)払ったとか、そういう話も残る。そんな延命学の噂をかねてから聞いていた。

どんな施術をするんだろうと興味を持った私に、往時の宮原先生の施術動画を見せてくれる人がいた。正直に告白すると全然わからなかった。凄そうな感じはひしひしと伝わるのだが、何をしているのかが全然分からない。当時のひよこの私には次元が違いすぎたのだと思う。それでも強烈な印象だけが残った。

桜井先生からも延命学の話は聞いていた。丹力の手技と足圧は延命学に由来するのだから当然である。「桜井先生は宮原先生の技術をどうみられるのですか」と訊いてみたところ、「何人か人を殺してるんちゃうか。」と一言、独特の言い回しをされた。

まさか本当に人を殺したわけではないだろうが、患者さんの命を懸けるような踏み込んだ施術を重ねてこないとあの域には達せない、ということを桜井先生は言われたんだと私は理解した。桜井先生も無条件で認めていた先生だった。



さてそんな延命学が私の所にやってきた。しかも技術を教えてくれるという。まさか!という感じ。自分の運の周りに自分で驚くしかない展開だった。

かつて宮原先生は日本各地で技術指導をされていたので、現在でも延命学を名乗る先生はちらほらといるのだが、正当な技術を伝えたのはただ一人実の息子だという。他の延命学は真似事であるという。その正統後継者である息子さんが、人を介して私と組まないかと話を持ち掛けてきた。

宮原先生(息子さん)は正統後継者だけあって「技術は凄い」が「人間がよろしくない」と評判は芳しくなかった。そこでひよこ整体師で「技術はまだまだ」だが「人が集まってくる」私と宮原先生が組めばうまくいくのではないかと考えた人がいたのだ。

なかなかよく考えたものだ。

私もお客さんも多少は混乱するだろうが、院の技術が向上するのは間違いない。当時の私には手に負えない人もまだまだ居たから、そういう人にとって宮原先生は救いになるだろう。宮原先生も私がサポートすれば心置きなく施術活動ができるだろう。何より当時の私にとって「延命学の技術」は垂涎の的であった。

我々のような職人にとって技術は一番の宝である。本物の技術を学び取る、これに勝る魅力はない。どんな犠牲を払ってでも、どれだけ金を積んででも、本物の技術を学び取らねば将来は開けない。開業3か月目に、私の将来を決定する大きな勝負どころがやってきた。



紹介者が宮原先生を私の所に連れてきた。

大きな手だった。握手をすると肉厚ですこしゴツゴツしていた。挨拶もそこそこに宮原先生は私の体を整えだした。お互い施術家だから言葉はいらない。技で語ろうということで、私もそれは有り難く臨むところだった。

宮原先生から見ると当時の私はひよっこで相手にならない。まず自分の力量を見せつけようとされているのもよくわかった。それでも私は貴重な機会に感動していた。自分は本当に運があると神様に感謝したい気持ちだった。

しかし一通り整えた後「こういう風にやるんやで」と言われた時に、意に反して熱が冷めている自分に気が付いてびっくりしたのである。



以前ビデオで見た故宮原一男先生とは別物だった。正統な後継者ではあったろうが、息子さんをもってしても全てを伝えられていないか、学び取られていないのではないか、ということを何故か私は確信をもって感じてしまった。

直感であった。直感以外の何物でもなかったが、宮原一男先生はここにはいないと感じた。そのレベルならおそらく自分は自力で乗り越えられると思った。いや乗り越えなくてはならない。そう感じた自分が不思議だった。

くどいようだが、息子さんも相当な腕である。少なくとも、父宮原先生を除いてこの息子さんに太刀打ちできる延命学療法家は当時も今もいないはずである。

それでも私はここじゃない、と思った。



せっかく人生をかけて整体の道に入ったのだ。迷うような決断はしてはいけない。勝てると思った自分の直感を頼りに乗り越えよう。そしてこれからは宮原一男先生に、本物の延命学に本気で挑もう。そう決意した。不思議なもので息子さんの施術を受けたことで、ビデオ中の宮原一男先生の輪郭が見え始めた気がした。

この縁談は断った。

院の家主であった紹介者が破談を了解してくれず、最終的に「それなら私がでます。」といってお客さんを連れて出ていくことになって色々と大変だったが、あの時は人生の大きな岐路だったと思う。




人生には逃してはならない勝負どころがある。

今こうして振り返る中で、私はあの時に勝負どころを間違わなかったんだと再確認した。



私が挑もうと決めた相手は「延命学創始者 宮原一男先生」その人だった。







つづく







三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-27 04:29 | 人生

体温と肚温


昨夜、夢現の狭間で「そういうことか」と思い至ったことがある。今日はそれを少し書いてみようと思う。

人間には2種の体温があるという捉え方である。

体温については我々はなじみ深く知っている。体温計で計ると凡そ36前後、体内ではもう少し高いが、それを我々は体温と認識している。しかしもう一つの温度を我々はもっているのではないか、そう思ったのである。私は「肚温」とそれを呼ぶことにした。


例えば私は、高校と大学と会社でとても不自由な思いをした。周りの人間から「アツい」と言われた。時に賛美のニュアンスもあったが、多くは非難めいた言われ方をしてきた。仲間内から浮くことも多かった。だから自分を抑えることも多かった。

逆にパチンコや土方のバイト仲間、あるいはナンシーなど外国の人達との付き合いにおいては、誰も私のことを「アツい」とは言わなかった。自分は素でいることできた。


私はいわゆる体温も高い。私が座っている座布団を人に貸すとびっくりされる。座布団がホカホカと温まっているからだ。電車で私の後に座った人がびっくりしていることも良くある。「あら、このシートってヒーターが入ってるのかしら?」っていう顔を見て、にやりとしながら私は電車を降りる。

しかし肚温はそういうものではない。より精神的であり、より人格的なものがイメージに近い。


もうちょっと違う角度から考えてみよう。

例えばわごいちで私にハラを揉まれる人たちが言う。「おなかがすごく熱くなって気持ちいいです。」これは何をしているかと言えば、物理的にハラの中の血管の流れを促進し、結果として生理的に体温を上げているのである。

しかし私の中では、そういう物理や生理だけではなく、それ以外の感性のイメージがある。

私の施術を受けに来る人は、ハラの鍋に冷えたスープを入れてやってくる。私はそこに自分のハラの鍋からアツアツのスープを注ぎ込む。そして相手のハラを温かいスープで満たすのである。そういうイメージを最近抱くようになってきた。

このスープこそが「肚温」ではないかと思い至った。

体温には上限下限がある。30度では動けないし、50度では死んでしまう。しかし肚温は極めて自由度が高く、20度の人もいれば90度の人もいる。そんな風に思う。



その上で、人間とはなにとはなく相手と自分の肚温を比較して生きているのではないか、というのが私の仮説である。自分と相手の肚温を感じ、比較し、その温度差によって交際の距離を測っているのではないだろうか。

学生時代や会社員時代の私と周りの人たちの間には、少なからぬ温度差があった。だから「アツい」と疎まれることもあったし、それが嫌だから温度を隠して付き合ってきたように思い出される。

そういう仲間内では、いつも必ず私を冷やかす人間が居たようにも思う。なぜか分からないが私を目の敵のように冷やかし、からかい、気持ちをくじこうとする人間がいた。ずっとなぜか分からなかったが、肚温に思い至った今、その理由がはっきりとわかる。

彼らは私の肚温の高さを感じ取り、比較して自分の肚温が低く、また上げようがないとあきらめるゆえに、私の肚温を下げようと冷やかすのだ。本能的に肚温のバランスをとろうとしているのだ。そうでないと彼ら自身がつらくなってしまうから、彼らも必死だったのだ。

実際に肚温は人間関係において決定的な要素となるに違いない。




昔、とある女性が私にメールを送ってきた。大きなトラブルに心身が痛んていて肚温は極めて低い状態だったように思い出される。彼女は私を求め信じてついてきて、わごいちに通い、千照館に通い、スタッフにまでなった。私の元で懸命の修業を重ねるうちに彼女は力をつけ、肚温が別人のようにまで上がっていった。

そこで彼女は問題を抱えたのである。ご主人との不和であった。私がみるに、もともと同じくらいの肚温であった夫婦において、奥さんが一人肚温を上げていくと問題を抱える。肚温が低い人間にとって、肚温が高い人間はもろ刃の剣となる。心強いパートナーとなるか、自分に劣等感を抱かせる相手となるか、である。その分岐点は、その本人による。

体温が同じでも、肚温が違うと人は対等では居られない。たとえ夫であっても、たとえ目上であっても、肚温に対して人は無条件の威圧を受ける。それをどう受け止めるかは人それぞれになる。

彼女のご主人は、猛烈な抵抗を示した。自分の肚温を上げる事よりも、妻の肚温を下げようとしたようであった。わごいちのことをカルトとさえ罵ったそうである。ご主人は肚温のギャップにそこまで追い詰められたのだ。彼女はご主人を思い私の元を去った。


まったく同じような道をたどったのが、今弟子をしている紙鳶である。彼女の場合は夫ではなく親兄弟であるが、彼女が肚温を上げるにつれて家族との付き合いが変わりつつあることは、わごいち通信やFBで彼女自身が書いているとおりである。


他にもそういう話には枚挙にいとまがない。

私の肚温に触れ、自分の肚温をあげている人は、大なり小なりこれまで同じ肚温で仲良くしてきた人たちとのギャップに苦慮しているように見える。冷やかされる人もいれば、非難される人もいれば、逆に周りの人が認めてくれる人もいる。


人間が変わるというのはそういうことなのだろうと思う。人間が変わるというのは、表面的なキャラクターが変わるという事だけではなく、その奥底の肚温の変化があるということではないだろうか。

肚温が上がってこそ、本当の意味で人間が変わったと言えるのではないだろうか。


変わるというのはある意味痛い。よく人に誤解されるが、私だって痛みは感じている。これまで仲間だった人と疎遠になる。「あいつは変わった」とか「見捨てられた」とか言われることもある。痛くないわけがない。痛みを感じないわけでは決してない。


私は会社を出てこの道に入ってから一貫して肚温を上げようと努めてきたのだと、今はっきりと認識する。

この10数年、私の元には多くの人が私の肚温に触れようとやってきた。私の肚温を注いでほしいとやってきた。その時その時の肚温で私は人を温めようとしてきたが、時に温めきれない人がいた。だから私はさらに自分の肚温を温める必要を感じた。

自分の肚温が高まるにつれ、救える人が増えてきた。私の肚温でしか救えない人が私の元で救われていった。それはそれまでの仲間を失う痛みを受け入れてでも価値のあるものだった。だから私は痛くとも肚温を高める丹練を欠かさないでいる。


どう生きようがその人の考え一つである。多くの人と同じくらいの肚温を保つのも私は決して否定しない。変化の痛みに耐えられない人を責める気持ちももはやない。

ただ私自身は、まだまだ肚温を高めていきたいと思う。冷やかす人間はかえりみない。痛くても、自分に不満足なまま途中で止まらず、心のままに前に進みたいと思う。そして痛みの先の新しい世界を見たいと思う。




さて今日は久々に夢から書きなぐったが、そろそろ締めよう。



どうやら人間には二種の体温がある。

皮膚の上から計る体温もあるが、命の源で燃える肚温と言うものもある。これを知っておくと対人関係をより深く分析できるようになるのではないか。

そんな今日の発見である。







三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-26 15:21 | 戯言

その7.はじめの一歩


桜井寛先生の指導は色々な意味でユニークだった。


こういう世界では技術を隠そうとするのが常であるが、桜井先生は隠そうという感性がおありでない。

初めて先生の「丹力セミナー」に参加した時、先生の教えっぷりに感服した。初対面であっても全て見せるのである。全て教えようとするのである。簡単にマスターできるような代物では決してないのに、簡単にできそうに見せてしまう。

案の定、その場に居たセミナー参加2回目の鍼灸師の先生が、「前回教えをうけてから、うちの女性スタッフの内臓を揉みましたら下血したのですが、何がまずかったのでしょうか?」なんて質問をしていた。

「たった1回習っただけでお腹を揉めると考えるあんたの感覚がまずい。」と私なんかは言ってやりたかったが、桜井先生は、そんな質問にも丁寧にアドバイスされる。だからか先生はよく勘違いされる。

丹力が簡単でないことは、当のご本人が一番知っている。でもそんな先生の真意を見抜く人はいなかった。




一方で桜井先生の接客はちょっと不器用だった。

「腰痛で・・・」という人に、一通りの治療をした後の帰り際にアドバイスされる。「これから毎日四つん這いで暮しなさい」。

「は????」っという顔になる。部屋の中でずっと四つん這い。犬のように四つん這い。隣の部屋に行くのも四つん這い。トイレに行くのも四つん這いですか???と。

怪訝な顔をして帰る患者さんを私は見送った。理由はあるのです。すごく示唆に富んだアドバイスなのです。でもそれを噛み砕いて説明してあげないと、患者さんは理解できないのです。とはさすがに憚られて先生に言えなかった。先生の真意を理解するのは甚だ難しい。

だからだろうか、技術は凄いのに先生の治療室は暇だった。



そんな先生のもとで、4ヶ月間みっちりと指導を受けた。毎日4~5時間ほど受けた。マンツーマンだったし実質的には徒弟のような指導であったが、私はちゃんと教授料をお支払いして技術を学ばせてもらった。ちなみに後にも先にも私が整体の指導を受けたのは、この時の桜井寛先生ただ一人である。(整体学校は何も学ばず中退している。)

先にも書いたが出し惜しみの無い先生であった。延々と続く反復練習には指もバンバンに腫れ上がったが(それでも練習は続いたが)、全てを見せて下さり、全てを伝えようとして下さった。ただ数ヶ月でモノになるようなものでは到底なく、先生の元を去ってからも数年、先生の教えを追究することになった。


桜井先生もそんな私を認めて下さったのか、「僕が死んだ時の為にこれを渡しておく」と弟子でもない私に丹力資料を色々下さった。桜井先生の手ほどきを受けた人間は沢山いるはずなのだが、どうも私以上にみっちりと腰を据えて学んだ人間はいないようだ。なぜだろうか。

勿体つけたり自分を大きく見せようとしない先生のお人柄が、人をして先生の力量を軽んじさせるのかもしれない。もしそうならば、なんと勿体ないことだろうと思う。当時も今も、桜井先生ほどの技術を持った治療師は滅多にいないのに、「見せ方」が上手い先生の所に人は惹きつけられてしまう。



桜井寛先生の所での修行が終わってまもなく、先生が東京に移動されることになり、「あとをよろしく」と託された。


まさかの開業である。







つづく









三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-22 14:03 | 人生

道を拓く

こんな日がくるなんてなあ。


明朝、初めての3部制に挑戦する。

奥座敷:通常通りのわごいちの施術(参尽)
大広間:千照館の丹足体験会(紙鳶)
想念の間:直伝!丹足集中セミナー(弘晃)

これらが同時進行で行われる。同じ空間で3人の先生がそれぞれの仕事をする。数年前には考えられなかった事だ。



数年前と言えば、参尽が恐る恐るハラもみを始めた頃。そして病人の紙鳶がやってきたころ。半人前の参尽と病人の紙鳶が、5年でそれぞれ1人前となり、私の代役を担うようになってきた。どれだけの人がこの今を予想していただろう。

丹足を広げるリーダー養成する「直伝!丹足集中セミナー」に12名の申し込みがあった。まだ増えるだろう。力強い第一歩になってくれればと願う。



妻が「あなた、周りのご家族に変わり者と思われているみたいよ。」と教えてくれた。「まだまだ俺も中途半端と言うこと。」と応えると「そういうことね。」と笑った。妻も私にストップをかけることはとうに諦めてくれている。

ずっと変わり者として歩いてきた。しかし閉塞社会を打ち破ってきたのは、いつの時代も変わり者だったことを歴史は物語っている。



道を拓いてきた。誰もが躊躇するハラに挑み、腸セラピーの火付け人となった。自身は「ハラ揉み」という古くて新しい世界を作り出した。足圧という癒し技を「丹足」という自己改造メソッドに進化させた。発想が私のハラに次々と湧いてくる。

「変わり者」と言われようが、その変わり者の先生に救われたと喜んでくれる人が大勢いる事実は揺るがない。救われたから私も誰かを救いたいという人が現れ出すのは止まらない。私の拓いた道が段々と広げられていく。



「先生が何を求めているのがわからない」と不安がる人もいる。明確なロードマップがないと行動できない人たち。「いやいや、私だってロードマップなんか持っていないんだよ。」

ロードマップがないから、私は道を拓いているんじゃないか。道を拓くという事は、先に何があるかわからないという事だ。一歩一歩が試行錯誤。自分の直感を信じて進むだけ。

わからないのが魅力なのだよ。



私が約束できることは、三角形の先端になることだけだ。常に先頭を歩むという事だけだ。先が見えない暗闇でも、未知のジャングルでも、私は道を作り出す。

実際にこれから飛び出す世界は深淵にして広大だ。だから拓く価値がある。私は私の直感を頼りに進む。



私に何かを感じ、自分を信じる人は、三角形の前の方で頑張りましょう。不安な人は後のほうからついて来ましょう。痛い思いをしたくない人は楕円の世界に残りましょう。自分のポジションは自分で決めるもの。その責は自分で負うもの。


私のポジションは先端。
役割は道を拓くこと。







三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-19 11:33 | 世界

その6.生き甲斐の花びら


一生の仕事を見つけるというのは本当に難しい。


大学卒業後に(株)コマツに就職したが、一生の仕事とは思ってなかった。24歳になっていても本当に自分がしたいことが見えておらず、まだまだ考える時間が必要だった。会社には失礼なことであった。


そもそも一生の仕事とは何だろうか。

土方をしても、家庭教師をしても、パチンコ屋で働いても、居酒屋で店長をしても、大学で英語を勉強しても、世界中を旅しても、会社で働いても、一生の仕事は見つからなかった。

寿司職人、蕎麦職人、花火職人、和太鼓奏者、杜氏、神主、経営コンサルタント、治療家etc... いろいろな職業を検討してみたが、どれも決め手に欠けているように感じて一歩を踏み出すことが出来なかった。

もちろんこのまま会社に骨を埋めようと努力もしたが、どうしても出来なかった。なりたい自分の姿を先輩社員の中に見つけられなかった。

じゃあ自分は何になりたいのか、何をしたいのか、と問われても何も答えられない。無駄なこと考えずに働けよと、周りに言われる。これじゃあ学校と同じだ。このまま思考停止したほうがよっぽど楽だなあ、ああきっとこうやってみんな大人になっていくのだなあ。




こんな閉塞感を吹き飛ばしてくれたのが祖母キミだった。フィアンセの純子を紹介するためにキミを訪れた時、畑でキミがふと言った。

「百姓がワシの生き甲斐や。」

生き甲斐。生き甲斐。生き甲斐。。。

さりげなく、しかしビタッと私のハラの粘膜に「生き甲斐」という言葉がへばりついた。ちゃんと考えたことのない言葉だった。知っているようで知らない言葉だった。



生き甲斐とは何だろうか。

軽々に口にすることさえためらわれる、生き甲斐。会社員時代の私にはなく、畑で人生を重ねてきた祖母キミには明確にあったもの、生き甲斐。



キミは畑と共に生きてきた。嫁に先立たれた2人の子連れの祖父のもとに嫁ぎ、3人の子をなした。5人の子供を育てながら畑に生きてきた。祖父は商いをしていて家に帰らず、女手一つで畑を守ってきた。

力仕事は近所の男衆に頼まねばならず、色々と苦労をした。祖父の商いも波瀾万丈だったという。そんな中で畑と家庭を守ってきた。決して自分で選んだ人生ではない。地縁のしがらみの中での一所懸命な人生だった。

そして亡くなる半年前に私に「百姓がワシの生き甲斐や」と聞かせてくれた。

会社で生き甲斐という言葉は一度も聞かなかった。今まで出会った大人からも聞かなかった。魂のこもった「生き甲斐」を伝えてくれたのはキミが初めてだった。





このまま会社員をしていても私の人生に生き甲斐を見つけることはできないと感じた。半年後、死の床についていたキミに別れを告げた帰り道、妻に「整体をやる」と告げた。

考えても考えても生き甲斐がわからない。考えるだけでは永遠に行き着かない。行動しながら探し求めるしかない。一生かけても見つかる保証はない。それでも私は生き甲斐を求めて、整体の道を歩もうと決意した。











つづく





(おまけ)

最近なぜか不思議なことがよく起こる。

今朝いつもの丹練をしながらキミを想っていたら、「そうか、生き甲斐の正体はこれか!」と閃いた。畑で聞いて20年も経って、ようやく合点がいった出来損ないの孫。

その時である。

いち枚の桜の花びらが、はらりと足元に落ちてきた。難波神社の桜の名残であろうが、ビルの8階である。風もなく、他に花びらは無い。

キミばあちゃんが来てくれたのかもしれない。

花びらをしばらく見つめてから噛みしめた。




生き甲斐が、ようやくハラに収まった気がするよ。







三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-18 15:12 | 職人

その5.3Kの目

1年間の浪人生活を経て大学に入学した時、世はバブル経済のピークを迎えつつあった。

私が垣間見たバブルとは、借金して3000万円で買った家が3年後に5000万円で売れるという時代。金利も含めて4000万返済しても、3年タダで済んでしかも1000万円手に入るという時代。不思議な時代だった。

そんなバブルの時代によく耳にしたのが「3K」という言葉。「きたない」「きつい」「きけん」の頭を取って3K。バブルでブイブイいわしていたホワイトカラーの人間が、ブルーカラーの人間を見下す時にもよく使われたように記憶している。



当時の私は必死だった。自分はそれまで親と学校の枠内で暮し、個として社会と一切向き合って来なかった。自分で何かを考え、自分の責任で行動するような人生を送ってこなかった。あまりに社会を知らなさすぎる。

それに気づいてからは、このままでは社会でちゃんと生きていけなくなる、ただ単に社会的保護者が学校から会社に変わるだけで、自分自身の人生を送ることはできない、と焦りさえ感じた。

大学時代にはバイトを色々やった。バブルらしい華やかなバイトではなく、いわゆる3Kという仕事ばかりを選んでやった。3K仕事を通してバブル社会の奥底を見ようとしたんだと思う。



面白かったのは日雇いの土方仕事だった。朝7時くらいに広場に行く。事前の面接も申し込みも何もない。ただそこに行く。そこには200人くらいの労働者たちが居た。若者も年寄りも、日本人も外国人も、多様な人達が集まっていた。

しばらくするとワゴン車が10数台やってきて、「ここは8人」「こっちは6人」とか言うと、皆が適当に車に分散して乗り込む。人数が揃うと出発。時には人があぶれて、つかみ合いの喧嘩になった。

無事に車に乗り込むと、運転手が車内で行き先と仕事内容を伝える。目的地に着いたら現場監督が居て、その指示に従って黙々と一日肉体労働をする。時間が来たら再び同じ車に乗って広場に帰り、プレハブ小屋の前に並んで日当9千円をもらって家路に着く。



私はこの仕事が面白かった。誰に雇われるのかもわからない。どこに連れていかれるのかもわからない。互いのことは誰も知らない。仕事で怪我しても多分保障などない。極端に言えばそのままどこかに拉致されても誰にも知らされない。

でも感動があるのだ。一生懸命働いて、その報酬を手渡しで受け取るときの嬉しさ。「ああ、一日頑張って働いたなぁ。」という手応え。労働の原点を感じたのかもしれない。シンプルだからこそ伝わる感動と言うものがそこにあった。

帰りの電車で隣に座ったスーツ姿のサラリーマンが、汗とホコリにまみれた私の服に触れるのを露骨に嫌がった。心の中で思った。「誰のおかげで綺麗な道路を走れるんじゃ。」




パチンコのバイトもお気に入りだった。

結構な肉体労働だし、仕事上がりにおしぼりで顔を拭くとまっ黄色になった。タバコのヤニがこびり付いていたのだ。紛れもない3K仕事だった。

人が面白かった。店長は元ヤクザの用心棒をしていた人で、カラオケで酔っぱらって包丁を振り回していた時は怖かった。副店長はもと暴走族の特攻隊長でいつも無表情で怖かった。が、ごくたまに笑う時はとても愛嬌があった。社員もマルチ商法にはまっている人、いつもあいさつ代わりに背中をどついてくる人など変な人が色々いた。

「なんで俺ばっかりどつくんですか?」と訊いたら、「お前は頑丈やから壊れへんやろ」と言ったが、本当はその社員が気に入っているあみさんと言う女性が、私に良く話しかけてくるのが気に食わなかったのだ。それでもその人のことも私は好きだった。

職場は3Kだったかもしれないけれど、仕事仲間は自分を剥きだにして付き合ってくれたように思う。バイトをやめるとき、心のこもった送別会をしてもらったことは大事な思い出だ。決して社会的地位は高くなかったかもしれないが、自分が個として社会の中に立っていたように感じた。だからそれぞれがそれぞれにカッコよく見えた。




そんなバイトで稼いだ金はほとんど旅行に使った。貧乏旅行で、主にアジア各国を回った。中国、インドネシア、シンガポール、フィリピン、タイ、ベトナム・・・を回った。泊りは一泊500円くらいの最低レベルのドミトリー、食事は屋台で、数万円握りしめて金が尽きるまで滞在するという自由な旅をした。

しばらく滞在したフィリピンのエリミタ(マニラでも1番の犯罪地区と言われていた)では、ショットガンをもったおっさんたちの中を、懐にナイフを忍ばせて歩いた。安ホテルに帰ると毎晩30匹以上のゴキブリを潰してからシャワーを浴びた。



そんなアジア貧乏旅行から関西空港に降り立つと、いつも強烈な違和感があった。目が違うのだ。きらきらあるいはギラギラした目でまっずぐに見つめてくるアジアの人たちと、互いに目を合わさないようにしている日本の人たち。端的に言うと、生きている目だらけの世界から、死んでいる目だらけの世界に帰ってきたような感じがした。

唯一日本でそういう生きた目に出会えるのは、日雇いやパチンコなど3Kの仕事仲間だった。



なんなんだろう、この社会は。

我が世の春を謳歌するバブル日本の中でそんなことを思った。








社会勉強が過ぎて、大学卒業が1年延びた。









つづく








三宅弘晃

080.gif今日の丹練
・四股300丹


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by wagoichi | 2017-04-17 18:26 | 人生

ONE?TWO?


熊本市長から礼状が届いた。


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熊本研修旅行の1週間後に震災が起き、皆さんから託された義援金を届けたのが去年の11月だった。

(当時の記事はこちら↓)


仕事の合間の夜行バス弾丸ツアーは体力的に厳しかったが、権藤君の助けも借りて、熊本城、益城町役場、そして竹熊先生のもとに義援金を届けることが出来た。

竹熊先生からもお礼の著書50冊が届き、今わごいちの玄関で新たな義援金に生まれ変わりつつある。また秋くらいに第2次義援金ツアーをしたい。



地震の直後、研修でお世話になった竹熊先生にお見舞いをしたいと思い、もし自分が先生なら何が一番元気づけられるだろうかと考えた。

義援金も嬉しいだろうが、やはり私が先生なら、落ちた瓦の修理よりも自分が学び得た知恵を少しでも多くの人に知って欲しいと考えるに違いない。だから「学んで支援」というメッセージと共に、先生から購入した50冊の著書を皆さんにお勧めし、代金を義援金に充てた。

単にお金のやり取りだけではもったいない。本を熊本と日本各地の間で循環させようという考えだった。今回のことをきっかけに多くの人が竹熊先生の知恵に触れることが出来たんじゃないかと思う。




世間には「ボランティアなんて偽善だ」という人も居ると聴いてびっくりする。そういう人は、ボランティアや支援活動を「お恵み」として捉えているのかもしれない。

例えばわごいちで整体をしているのは、慈善事業ではない。税法上は営利事業である。しかしだからと言って営利だけを求めて経営しているわけではない。人の助けになりたいという理念に基づいた経営をしている。

「営利と理念」。言い換えれば「自分の為と人の為」。どちらも否定はできない。どちらも常に存在する。どちらも存在し、なおかつ不可分の存在である。共にひっくるめて人の営みであり、わごいちの整体である。

だからこそ「和合一致」という屋号を冠している。



私は皆さんに声を掛けて熊本を助けに行った。それはつまるところ、私自身を助けに行ったのであり、義援金を託してくれた皆さんを助けに行ったのである。

行動を起こしたことで、私たちは随分と力をもらった。確かに繋がっているという感覚が、生きている手応えを与えてくれた。

人があるから自分がある。自分があるから人がある。人と自分は分けられるものじゃない。それを分けようとするから心身のバランスを崩して人は病気になる。

ここに気付いている人は意外に少ない。



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TWOは寂しいよ。







三宅弘晃

080.gif今日の丹練
・重刀200丹
・四股300丹


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by wagoichi | 2017-04-14 17:26 | 日常



「原点が導くこれから」という感じでしばらく探り書きです。

by 三宅弘晃
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