照千一隅への道のり

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人間の性



ようやく。。。と言うべきか。 『翔ぶが如く』全10巻を読み終えた。

男達が不器用で頑固で愚かで、でも懸命で誠実で潔くて、読んでいて切なくて何度も途中で挫折した。もともと読むのは早い方ではないが、この本は読み始めてから2、3年くらいも経ったろうか。



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それでも 『竜馬がゆく』 『最後の将軍』 『翔ぶが如く』 『坂の上の雲』という幕末か日露戦争までの道のりを一通り読み、ようやく感じとれたことがある。

どうして日本人はあんな酷い戦争をしてしまったのか、ということについて。



辛い過去に目を伏せる人もいれば、過ちを繰り返さないようにと直視する人もいる。司馬先生は歴然とした後者として、後世のわれわれが同じ過ちを繰り返さないようにとの願いを歴史小説の中に残されたと思う。

戦争に正しいも過ちもない。戦争が起これば大なり小なり文化は破壊され弱きは凌辱される。暴行や虐殺が全く伴わない戦争など古今東西どこにもない。誰でも戦争の中では精神のバランスを崩し、平常では考えられない行動をする。それは人間という生き物には共通の性として刻まれている。

ハラを触ると、人間の性の生々しさに呆れ果て、途方に暮れることがある。人は理屈だけで生きているのではない。感情だけで動いているのではない。それらの根底にハラがある。理性や感情の源であり、帰結であり、支配者であるハラから逃れて生きることは出来ないと痛感する。



「私は理性がしっかりしている」と口にする人間ほど危うい。そうことを口にする最中のハラは完全に沈黙している。まるで「やれやれ、こいつに何を言っても無駄だな。」とハラが言っているようである。そんなハラの気持ちなぞ全く省みない人間に触れていると、だんだんハラが可哀そうになってきて、代わりに言ってしまうこともある。「あなたの頭はそんなに立派なもんじゃないよ」と。

まあびっくりする。なんてこと言うんだとムッとする人もいる。でも理屈だけで自分を律することができるなら誰も苦労しない。「明日からダイエットするぞ!」という決意が挫折するはずがない。「旦那さんに毎日素敵な笑顔をするぞ!」という誓いが破れるはすがないじゃないか。

人は理屈だけでは制御できない。理屈は、環境の変化や自己都合が生み出す新しい理屈に、いとも簡単に更新される。「笑顔の絶えない幸せな家庭を築くって決めたのに、旦那さんに笑顔を返してもらえない自分が可哀そうになってやめた。」

性を省みないで理屈をこねくり回しても、結局こういうことになってくる。




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じわじわと戦争の足音が近づいている気配がある。

戦争を起こすのはヒトラーではない。東条英機でもない。

「自分は間違わない」「自分はちゃんとしている」「周りがおかしい」と考える人が増えて大衆を形成した時に、ヒトラーや東条英機のようなリーダーが台頭してくる。そんな風情はもう今の世間に満ち始めてはいないか。

司馬先生は歴史小説という形で、我々の性には、誰しも愚かな未来を招き寄せる要素があるという警告を残されたようにも感じる。



私はハラを揉む。ハラを感じ、ハラを語ることで、人間の性を伝えていこうとしている。

私が真に怖れるのは怠慢が引き起こす病ではない。狂気が引き起こす戦争である。そのどちらにも傲慢というハラへの無関心が見て取れる。





人のハラも思うほど綺麗じゃない。正しさだけを持っているわけではない。

それが良いとか悪いとかではなく、それがハラというものである。美しさも醜さも内包しているのがハラである。そういうハラの性を直視する。そこに生の喜びを感じとりながら、その上でどう感じるか。どう考えるか。どう行動するか。ハラをイキイキとさせて生きるにはどうしたらいいのか。ありのままの自分と共に、そんな自分を律していくにはどうしたらいいのか。どう生きればいいのか。

それを考え続け、伝え続けるのが、ハラ揉みをする人間の本懐ではないかと思う昨今である。





ああ。

また司馬遼太郎記念館へ「21世紀に生きる君たちへ」に触れに行きたくなった。










三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-01-29 05:18 | 人生

ちょっと一休みの「考えない旅」


「10時から仕事のお手伝いに生徒さんたちが来てくださるから、それまでに家を出てね。」と妻に言われたのは、昨日の朝の出来事。週に一度の定休日は、妻が大雪で置きざりにしてきたマイカーを回収するために滋賀まで行くことになっていた。

ばたばたと来客を迎える準備をしている妻が「コーヒーでもいれましょうか?」と聞いてくる。「いや、忙しそうだから僕のコーヒーにつき合わせるのは悪いよ」と言うと、「私は手が離せないから、あなたの分だけコーヒー入れるわ。」と言う。やれやれ、これは早く家を出た方がよさそうだ。「ありがとう。そろそろ行くよ。」

妻の尻に敷かれる気弱な亭主を装ってみたくなるほどになぜだか弾む心を落ち着かせ、滋賀県へのおつかいに出発した。



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久々の路線バス、そしてJRを乗り継ぎ滋賀を目指す。

今回のミニ旅のテーマを決めてみた。「考えない」というものである。というのは、最近ふと「俺はどうしてこうもいつも仕事のことばかり考えているんだろう」と疑問に持つことが増えてきたからだ。仕事中はもちろん、ご飯を食べている時や電車に揺られている時や寝ている時でさえ、いつも仕事のことを考えている。体のこと、そして人間のこと、さらに社会のことを。

昔の自分はこうではなかった。学生時代はいつもぼーっとしていた。「三宅君はいつもぼーっとしているね。」とよく言われるくらいに間違いなくぼーっとしていた。なのにこの仕事をはじめてから自分は変わってしまった。幼い子どもと二人で風呂に入っている時にもついつい癌の施術をどうしようかなどを考えてしまい、しらーっとした目で子供が私を見ていることがよくあった。とにかく私はこの15年で随分変わってしまった。

こうやって一心に15年間考え続けてきたからこそ今がある。誰よりも考えてきたから誰も知らない発見を得てきた。それはわかっているが、そろそろそのスタイルも終点に到達したかもしれないと感じることが出てきた。ここまで骨の髄まで叩き込んできた「考えること」を極力なくしていくことが、行き切ったうえで本来の自分の「ぼーっと」に戻ることが、むしろ次の段階に繋がるのではないだろうか、と。



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しかし改めて「考えない」を試みるとこれが意外に難しい。どの電車に乗れば早く目的地に着けるか。速さだけじゃなく電車の込み具合も勘案して、ベストチョイスを無意識に探している自分を発見する。油断すると頭のどこかで自動的に行程を計算していることに気付く。「だから今日は考えないんやって!」と自分の頭に言い続けて電車を乗り継ぐ。「南の島で女性に働かせてのんびり木陰で寝ているあのおじさんの境地になるんだ!」と何度も何度もイメージして言い聞かす。

それでも自動的効率探求システムがあまりにもしつこく動き出してしまうので、そういう時は戒めとしてその度に乗り換えの電車をわざと見送った。「ああ、いっちゃった。」と一人ホームに残って電車を見送りながら写真を撮っていると、完全な鉄道マニアの完成である。ともあれ結局1時間で行けるところが2時間かかったのだが、結果的にそれが意外に快感なのはひとつの発見でもあった。





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滋賀は週末の名残雪でまだまだ真っ白。「線路は続くよどこまでも」いやいや続かないよ。いつか途切れるんだよ。人生と一緒だよ。とつぶやいてああまた!とこんなところまで説教臭い自分にうんざりする。

罰として、最後は電車ではなく歩行へ乗り換えることにした。目的地までどれだけかかるか分からない。道も全く分からない。最近覚えたスマホの地図アプリを使えば丁寧に案内してくれるが、もちろん使わないことにした。街の地図と町の人に尋ねながら、目的地を目指すのである。見知らぬ土地で目的地につけるのか。出発前から軟骨再生中の足首がズキズキと痛んでいたが「今日は何も考えない」と繰り返す。そうするとなんだか嬉しくて、ズキズキがドキドキに変わった気がした。



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雪中のネギ、うまそうだな。ネギや白菜は雪をかぶると甘みが増すと聞いたな。食べたいな。かじりたいな。この農家の人に出会わないかな。そしたら一本分けてくれませんかとお願いできるのに・・・なんて思って歩いていたら、案の定いきなり180度真逆の方向に歩いていた。田舎は歩いている人なんてほとんどいないから道を聞くことさえできない。歩く人がいないからだろう、地図なんてどこにもみあたらない。

まずスタート地点の駅からして、大阪の駅なら必ずある近辺地図さえない。歩くということを想定していないのであろう。いや、地図なしであるくというバカな人間を想定していなのだ。ああ、バカで結構。バカって快感。それでもたまに出会う人に親切に道を教えてもらいながら進んでいく。いいぞ、考えない旅らしくなってきた。

結局2時間歩いた。




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不思議な電信柱の反射鏡だなと。そうか、ここらは雪が深いから、電信柱が雪に埋もれても大丈夫なように上にも反射鏡をつけているんだとひとり合点。そういえば昔の新潟の線路保安員は、電柱についているカマキリの巣の高さをみて、その年の冬の積雪量を予測しているという田中角栄さんの話を思い出し、カマキリも人も自然に生きる人の知恵は偉いなあ、凄いなあ、こういう知恵を自分ももっと・・・と思って、いかんいかんまたなんか仕事への連想をはじめている自分を戒める。

「考えない道」は思いのほか険しい。





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野洲川。

「水はさやかに美しく、空のように青く、限りなき美に、ドナウは満ちる。」

なぜか滋賀の奥深くでドナウ川の歌を口ずさみ、ちょっと考えない旅に手ごたえを感じた。








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水口城。

半分溶けた堀に逆さに写る櫓。ああ、熊本城を思い出す。地震の再建はどのくらいまで進んでいるんだろう。現代に無用の長物は、守り伝えようという取り組みそのものが我々の財産になってくれているのかもしれない。

ほらまた色々考えようとする。なぜこの美しさをそのまま味わえないのか。

やっぱり仕事を考えないのは難しい。





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せっかくなのでお城の橋桁に手形を残してきた。

だんだん溶けて最後に消えるのがいいんだ。



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雪の重荷が溶けていく椿。

雪に震えるわが身の不幸を嘆かぬ自然。嘆くエネルギーがあるなら、雪の重みと冷たさに耐えるために使う。純粋に命を残すためだけに使う。生きるためだけに使う。だから枯れない。余計なことを望んで嘆いて消耗するのは人間特有の愚かさではなかろうか。。。。

ほらまた!








この後マイカーを無事回収して、義父とランチを。

数年前に肺がんと言われて、一切の治療を拒否して奇跡的に完治させた義父。全てにおいて一気に気弱になっていた当時から数年の時を経て、また強い義父が戻ってきつつある。良くも悪くもあるが、今はありがたく見守りたい。



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滋賀からの帰り道。

美しい一日だった。妻がくれたプレゼントだったのかもしれない。





帰り道にちょっと気になって京都に住む実の両親の顔も見てきた。

家事と介護ヘルパーの仕事をしながらほぼ毎日のように息子(我が弟)に手料理を届けている母はさすがに疲れていた。背中をさすりながら「大丈夫?」と訊くと、はじめて聞く昔話を聞かせてくれた。

母が物心つく前のこと、多分2歳とか3歳の時に腸カタルか何かの伝染病で入院し、命が危うい時があったそうだ。母の祖母は4人も娘がいる一番下の子だから諦めてもいいんじゃないかと言っていたそうだが、腹を痛めて産んだ母親はそうはいかず必死で看病してくれ、病院への治療費が払えないからと鶏をつぶして医者に届け、病室には沢山のホオズキで壁に飾り付けをして一生懸命励まして看病してくれたという話を、母は成長してから姉達に聞かされたらしい。

「私も一生懸命護ってもらったから、今そのお返しの時が来たのよ。」

と母は言った。





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物心ついてからの恩さえ忘れがちなのに、物心つく前の恩を大事に後に繋いでいこうという母親の凄みを垣間見た気がした。そしてこの母の遺伝子を継いでいるということが励みになる。

父とも久しぶりにゆっくりと話をした。さすがわが父だけに気難しいところも多々あるが、昔から親兄弟のことを語る瞳はいつも情愛に溢れていた。この不器用ながらも情愛に溢れた父母の命を繋いでいることを改めて自覚した。



とうとう「考えない一日旅」は終着駅についたようだ。持って行った酒を両親はことのほか喜んでくれた。



今日積もっていた雪は真っ白で綺麗だった。でもはじめて降った雪ではないであろう。何十万年と繰り返して降り続けてきた雪の歴史の刹那であろう。

私たちもまたそうであろう。










三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-01-20 00:50 | 日常

癌の3要件その1 癌と栄養


では予告通り「癌の3要件」について書いていこう。どうしてわごいちでは15年間、癌を完全に封じ込めているのか。その根拠について。まずは栄養面から話そう。

私の知り合いに福井でお米を作っている人がいて、その人から聞いた話がある。もともとは慣行農法といういわゆる農薬やら化学肥料やらをふんだんに田んぼに投入する世間一般の農法を実施していたのだが、思うところあり農薬や化学肥料を使わないなるべく自然の力を活かした農法にしようと決意された。が、しかし自然は甘くなく、土壌に農薬が残留していた当初の2,3年の間は上手くいっていたのが、残留農薬の効力が切れた途端に雑草がわんさか生えてきて、人力で雑草をひたすら抜いていくという苦役がはじまり、疲労困憊してしまったそうである。

しかしその時に助けが舞い降りた。たまたま近くに立ち寄った樹木医つまり木のお医者さんがいたので、自分の田んぼをみてもらったところ、「土が悪い」と即断されてしまった。以後どうやったら土の状態が良くなるかを研究を重ねられ、今では農薬なし、肥料も牡蠣殻など最低限の天然素材で、雑草も少なく美味しいお米をたくさん獲れる田んぼに作り替えられたそうである。

私はこの話は大変味わい深い話だと思い、ことあるごとに人に話している。できれば全国の医療関係者や病人に聞いて考えて欲しい話だと思っている。大地も大自然なら、我々の体も大自然である。文献やネットで情報ばかり集めていないで、もっと広く深い視野で自然と命を見つめれば体の見え方も変わるだろうにと、いつも思う。

私はハラを揉み続けて15年になる人間である。面白いのはハラを「肚」と書くことである。月へんは体の意味を持つから、「肚」は体の中で土の存在であるということだろう。実際に毎日沢山の人のハラを揉んでいる私の感覚では、この「肚」という漢字は全くもって的を得たものであって、ハラはまさしく人間にとって土そのものと感じる。異物(食物)を吸収し分解し発酵させ木々(肉体)の為の栄養に変える命の源が「肚」なのだから。

「ハラは肚」

食べ物を語る時に、健康を考える時に、まずこれを忘れては話にならない。そもそもの根源的な概念なのだから。しかるに現代の医学も栄養学も薬学も、この概念が決定的に欠落しているのはなぜだろうか。


病気になった時、人は食べ物と薬の情報を集めようとする。ネットや書物や専門家からのアドバイスを通して、病を治す薬を、食べ物を探そうとする。「あれを食べればいい。」「この薬がよく効く。」そういった情報をできるだけ集め、その中から自分が良さそうに思う情報を取捨選択し、体に入れようとする。その考え方はそれほど間違っているようには思えない。これだけ医学が進んで、これだけ情報が提供されている時代なのだから、その恩恵を活かそうとするのは当然のことだと思う。しかし問題は、あなたが手に入れる情報が果たして信頼に値するものかどうか、ということである。本当に人間の体を知り尽くしたうえで、特に大事なハラのことを理解したうえで精査された情報であるかということである。私はここにかなりの疑問を抱いている。

私のところに病を抱えてやって来る人たちは、一通り病院巡りをし、さまざまな健康情報を集めて試した末にやって来る人たちが多い。そんな人たちのハラに触れながら話を聞いていると、人ぞれぞれ実に様々な健康情報を持っている。あれもやった、これも試したと私の知らないような情報もいっぱい抱えてやってくる。よくもまあこれだけ情報があるものだと感心するわけだが、しかし結局のところ、それらの情報は役に立たなかったか、一時的に効いたけれどもやがて効果が無くなってやめたという話に帰結する。本当の事が知りたくて私のところにやってきたんだ、と言う。出回っている情報は最終的には役に立たなかったのだ。

これだけ様々な健康情報があり、様々な人が様々な努力をしているのに、なかなかこの世から病が消えない。消えないどころか癌になる確率は年々増えている。医学は進歩していると言いながら、医療費は年々増えていながら、情報はこんなに便利に得られるようになりながら、結局癌は増えている。毎年のように新しい治療法ができてきているのに、その努力を踏みにじるように癌の苦しみは我々人間社会を益々脅かそうとしている。

これはどういうことであろうか。


ひとつ実験をしてみると解りよいかもしれない。元気な花が咲いている植木鉢を用意しよう。そして翌日から毎日肥料をあげてみよう。良質の有機肥料を買ってきて、毎日欠かさず肥料をあげてみよう。量はせっかくだから贅沢に多めにあげてみよう。大事に大事に毎日欠かすことなく肥料をあげよう。さて一月後にこの花はどうなっているか。多分枯れているね。花は枯れ、葉もしおれ、全体に茶色くなっているだろうね。土のにおいを嗅いでみると、嫌な匂いがするはずだ。これは栄養過多で土が腐って枯れたんだね。海の赤潮と同じく、栄養が多すぎると生き物は死んでしまうんだ。

人間の体も同じ。栄養をどんどん取れば体は元気になると皆思っている。薬を飲めば病気は治ると思っている。熱が出たら栄養が足りないからだと言っていつも以上に食べたり薬を飲んだりする。すでに現代人の体は栄養過多なのに、過多すぎて熱が出ているかもしれないのに、そこに追い打ちをかけるように栄養を摂る。そして薬で無理矢理症状を抑える。これは肥料を与えすぎて弱ってきた植物に農薬をまき散らすこととどう違うと言うのだろうか。

なぜ我々は2人に1人が癌にならなくてはならないのだろうか。家族の半分が、友人の半分が癌にならなくてはならないのだろうか。医学が進歩しても、情報が充実しても増え続けて留まることを知らない癌を我々はどう受け止め、どう向き合ったらいいのだろうか。

わごいちに通う医療関係者の話を聞いていると、医療現場でハラを触ることはほとんどないらしい。検査は機械を通して行われる。検査結果はパソコンにデータとして出てきて、それを患者に伝える。あまりに沢山の患者を診なくてはいけないので、なかなか患者の顔をみてじっくり話を聞くということが出来ないという。ハラはおろか、体のどの部分にも一切触れないで診察が完結する事も多いという。癌には免疫力が大事ということはあらゆる医療関係者が知っている。その免疫力の多くは腸によって育まれているということもまた知っている。なのにハラを触らない。エコーの画像、CTの画像、血液検査のデータなどをみて「わかった」という。言わざるを得ない。なにがどこまでわかったのだろうか。

食事指導をする管理栄養士も、薬を処方する薬剤師も、まずハラに手を触れない。薬や栄養を受け止めるハラを触らない。触らないで検査データをみて「あなたの体にはこれとこれを”入れれば”いいですよ」と言う。「入れる」事には関知するが、その後入れたものが体内でどう変化していくかは関知しない。自分が処方したものが入っていく先のことをよく知らないまま食事指導をし、薬を出す。

今の進んだ医療は、ハラをみない。ハラに触れない。ハラに関心を持たない。逆に進んでいなかったはずの一昔前の医療の方がハラに手を触れていた。今でもベテランの老医師はハラを診ることがある。そういう老医師が癌を見つけることもあると言う。ハラに触れないということは、木をみて土をかえりみないということであろう。土が栄養過多で腐っているのに、木の弱り具合だけを観察して「この肥料を入れよ」「この薬剤を散布せよ」と言って、ますます土を腐敗させその生命力を弱らせていくようなことはないだろうか。

「ハラは肚」

この感覚をどれだけの人が持っているだろうか。ハラを見ずして体を語ることなかれ。命を育み、命を保つのはハラである。免疫力が腸にあるとようやく最近注目されるようになってきたが、そもそも免疫力だけじゃなく、消化力も吸収力も循環力も浄化力も昔から人間はハラで行ってきたのである。そのハラを軽視したまま、ハラに触れずして医学を進歩させようとも、情報を拡散しようとも、それらが病の、癌の核心を癒すことは甚だ難しいであろう。

もうおわかりであろうか。

世の中に出回る健康情報、栄養に関する情報などがその実トンチンカンであるということが。ハラを触りもしない人たちが作った専門知識を伝言ゲームでメディアやSNSが拡散しているのが今の健康情報である。更には癌ビジネスに群がる人たちの怪しげな情報まで交じってくるとどうしようもない。「腸を元気にする食べ物」「腸まで乳酸菌が届くサプリ」なんて類の情報も沢山出回っているが、すでに食べ過ぎで飽和状態のハラにそんなものを入れたところで腸が弱って全く逆効果であることがほとんどである。それを専門家もそうでない人もみな気付かない。ハラに触れないから気付かない。だから癌が増えていく。逆に言うとその事実に皆が気付いていければ、癌は確実に減っていくだろう。

わごいちでは徹底的にハラに触れる。ハラに触れ、ハラを揉みながらハラの状態をさぐる。炎症はないか。癒着はしていないか。どうして腫れているのか。普段どんなものを食べているか。それが臓器にどういう影響を与えているか。ハラの状態を会話で探り、施術で探る。腹筋の奥のハラの状態をできるだけ深く探って異常を感じ取り、その原因を特定していく。いきなり栄養を摂りなさいなんて指導はまずしない。ハラも疲れているんだから、休息を上手く交えながらハラをまず元気にしていく。栄養指導はそれから後の事なのだ。実はそれで十分癌は予防できる。15年間誰一人癌になっていないわごいちの実績がそれを物語る。

ハラは肚なのである。

食べ物を受け止め栄養に変えてくれるハラのことを思い遣り、ハラの状態に合わせた食生活を考える。決して専門知識を押し付けたりしないで、手で触れ状態を感じ取り、定期的に食生活とハラの状態の推移を観察しながらその人にあう食生活を模索していく。丁寧で息の長い取り組みが必要になるが、本来「栄養」とはそういうものであろう。サプリで栄養を何とかしようなどと言う考えそのものがハラへの軽視の現れではないか。そんなことではいつまでたっても癌と言うしっぺ返しをハラから食らい続けることになるだろう。



今日はわごいちの癌予防の3本柱のうち、「栄養」についてまとめた。次回は「運動」について書いてみようと思う。







三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-01-17 16:11 | 教育

雪中休話 「どうしてこの酒がうまいのか」


送られてきた一枚の写真を見た時、「お?」っと思った。なんか俺、楽しそうや。なんでこんなに楽しそうに酒を呑んでいるんやろ。


気になって、ちょっと考えてみることにした。






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お相手は、御年二回り以上にもなる人生の大先輩、Sさん。

Sさんは我々わごいちの心と胃袋のサポーターとも言うべき人で、いつも贔屓にしてもらい、家族スタッフ総ぐるみでお世話になっている方。

昨年に両親からのご縁で知り合い、すぐに私はSさんを好きになった。Sさんも我々一同を気に入って下さり、以後過分なご厚意をいただいている。誠にありがたいお方である。



Sさんの経歴にも少し触れておく。

長らく会社勤めをされていたが、後に都市銀行の頭取になった偉い人に見込まれ、背中を押されて独立開業されたのが、かのバブル崩壊の1年後。時期も時期だけに散々苦労もされたが、持ち前の馬力と人懐っこさで不景気の中をしぶとく生き抜かれ、リタイアされた今は第2の人生を謳歌されている。


そんなSさんと、この時は何を話したかな。

確か・・・ふんだんに下ネタが混じっていたことは間違いがない。なんせ一升瓶がほとんど空いた呑み方だったので記憶が怪しいが、困ったことに下ネタだけは覚えている。内容は伏せておく。




ひとつ確かに覚えている瞬間がある。

たまたま話題が電通のことになって、電通をとりまく世間の風潮について、「電通ってそういうところですからね」と私がボソッと答えると、「そう、そういうこと!」とSさんが手を叩いた。ほんの短いやり取りだったが、2人で息が合った瞬間があった。

「電通はそういうところ」なのですよ。


私個人的には、電通のような会社はあまりイメージが宜しくない。

昔、電通じゃないけど電通によく似たタイプの会社と付き合いがあった時、あまりに態度が???だったので心底腹が立ったことがある。腹が立ってこれはいっぺん話をつけなあかんと思って屋上に呼び出したことがある。(昭和の人間にとって屋上と体育館の裏は特別な場所である)

なぜ屋上かと言えば、もし話がこじれて取っ組み合いの喧嘩になった時、神聖なる施術空間で暴れるのが嫌だったからなわけだけど、そのくらい腹を立てたことがあったもんだから、そういう類の会社のイメージは悪い。



がしかし、だからと言ってそういう会社を否定するつもりは全くないのも事実なのだ。

そういう派手好きで銀座を闊歩する会社があるから(もちろんそれだけじゃないのは言うまでもないが)、その為にモーレツに働くような会社もあるから、日本経済も元気になっているという側面もある。またそういうモーレツな会社が性に合って、そういう働き方じゃないと物足りないタイプの人間も沢山いる。

人間にもいろいろなタイプがある以上、会社も色々なタイプがないと困るのが道理。


でも幼稚な大人はそれがわからない。そういう目立つ会社の一側面をとらえて「あの会社は狂っている」と糾弾して、糾弾するだけでは飽き足らず、法律で一様にしばりつけて、行政に指導させようとする。

そういう風潮を見ていると、もしかして共産主義になりたいのか?と疑わざるをえない。



Sさんは多分、電通のような会社も真っ青なくらいにバリバリと働いてきた人だから、命を削るように働くことで初めて達成できる自己成長や、会社業績について豊富な体験を持っているんだと思う。だから電通のような会社を国が型にはめておとなしくさせようという動きが気にくわない。

私も気にくわない。

だからこまごまとこんなことを話さなくても、「電通はそういうところ」の一言で話が通じる。




もちろん働く仲間は守らなくちゃならない。家族や友人を守らなくちゃならない。でも守る手段は考えなくちゃいけない。法律や行政指導は最後の手段であって、その前に仲間同士で守り合う意識を、そして行動を高めていかなくちゃいけない。

「君にはその会社は合ってないと思うよ。」

と大学の進路指導担当や親や先輩が、一緒になって考える。

「最近様子がおかしいけど、仕事きついんじゃない?」

と上司や同僚、同期の仲間や同窓会でであった友達が注意を払う。

「ちょっとそれはおかしくない?もうちょっと詳しく聞かせて。一緒に今後のこと考えよう。」

切羽詰まった時には、誰彼とないおせっかいな介入もまた必要じゃないだろうか。




一人一人は弱いんだから、皆が皆で守り合う。国に頼ってばかりいないで、政治を責めてばかりいないで、自分たちでまず自分たちを守る、自分たちで自分たちを生かす、そういう意識と行動がどれだけ今の日本にあるか。

それができないからと言って、多様性を無視して法律にすべてを丸投げしても問題は解決しないし、なにより息苦しくてしかたがない。仕事上がりの酒もまずくなる。




電通は電通なりに、改めるところは改めて、電通で働く人たちが知恵を出し合ってよりよい電通を作っていったらいい。そういう会社に合う人が働けばいい。

「いやいや、僕は給料低くてもいいから、モーレツに働かなくていい会社にします」っていうのなら電通じゃないホワイトな会社に行けばいい。

大事なのは皆等しく法律に守られている働き方じゃなくて、自分が働きたいあり方を考えて会社を選ぶことで、もし会社におかしいところがあると思えば上司や同僚とざっくばらんに意見交換して善後策を考えることで、もしそれでもどうにもならないと思ったらスパッと退職届を出してまた違う会社でやり直すことじゃないかな。

はっきりと意見も言わず会社にしがみつきながらグジグジとしている大人が多くて、困っている人に無関心を決め込む大人が多くて、自分たちで動かないで法律と行政指導でなんとかしてもらおうという人頼みな大人達が問題なのであって、そろそろそういう風潮を打破していかんと、悲劇は無くならない。

そういう日本の会社体質を見限って整体院をはじめたおやじの率直な気持ちである。



若者たちよ。


電通はそういう会社なんですよ。色々な会社があっていいんです。

よくよく考えて仕事を選んで、納得できないことがあれば酒飲みながらとことん話し合えばいいんですよ。そうすれば大抵の問題は実は解決可能なんです。



仕事なんて理不尽なことだらけなんだから、だからこそ人と人がね、何度も何度もめげないで話し合うことで互いに成長していくわけです。それが仕事をする上での本当の醍醐味なんじゃないかな。


Sさんも私もそうやって仕事してきているわけです。だから酒が一際うまいのですね。



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三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-01-14 16:52 | 職人

癌の3要件(前書き)


なぜわごいち通院者は誰一人として癌になっていないのか。


ようやく癌に対する探求が一つの区切りに行き着いたので、次回記事にはなるが公表することにした。「これを読めば癌が克服できる」と言えるほど話が簡単ではないのは当然のことで、読者の皆様にはあくまでもわごいちでの研究成果の公表として受け止めて頂きたい。


また蛇足ながら初めにお断りしておきたいのは、私は「癌はいくら高価なサプリメントでも決して治らない」という立場である。添加物まみれの加工食品や過剰な油分や糖分を食べる生活をつづけたまま、高価なサプリメントを摂取しても癌にはほとんど何の影響も及ぼさない。むしろ胃腸だけではなく肝臓や腎臓の負担となって、治癒に回すべきエネルギーを浪費するだけである。

癌にサプリメントは効かない。

この根拠はこれから書く研究成果を読めば納得頂けることと思う。今の時代に癌について語ると、すぐにサプリメント関係者が寄ってこられるので、念のため初めにお断りしておく。


・ ・ ・


さて本題に入る前に、わごいちの癌施術への実績と、わごいちの特殊性について多少の説明をしておく必要があるかと思う。

我らがわごいちは特殊な整体院と言える。世の整体院は体の不調があるときに通い、よくなったら通院をやめるのが普通である。困った時に断続的に通う、そういう形態が多いはずである。しかしわごいちの場合はそうではない。わごいちには皆さんきっちりと毎月通う。初めは不調で通い始め、それがよくなってからも通い続ける人がほとんどである。毎月きっちりと通い続けて5年10年と言う人がほとんどである、という特殊な整体院である。

「こんにちは、体調どうですか。」「いやー先生、肩と腰が張ってツラいです。」というのが一般的な整体院だとすれば、「体調どうですか」「お陰様でよい感じです。」という会話がわごいちの標準挨拶である。「体調が良いならなぜ通うの?」というごく普通の疑問がわいてくるシチュエーションであろうが、わごいちに通ってみるとそういう価値観を超えるものがあることを多くの人が知るようになり、結果として多くの人がずっと通い続けている。

このわごいちの通院について書いたのは、その是非の云々を今ここで語るつもりではなく、ただこのわごいちの通院の在り方が、統計を取るうえでとても都合が良いということを伝えたいがためである。毎月欠かさず通い続けて5年10年以上の人が沢山いる。つまりこれは「わごいちに通う人だからこそ現れる体の変化」を私たちも把握しやすいというメリットを授かっている。

今から書くのは、このわごいちならではの良質なる統計に基づき、15年わごいちでの取り組みとその成果について、私なりに分析したものである。あいにく専門的な統計学を私は学び得ていないが、単純にわごいちの通院者で「先生私、癌になりました。」という人は一人も出ていないというという点で、むしろ高度な統計学は必要ないはずである。癌罹患率ゼロなのであるから。

念のため断っておいた方がいいだろうが、「わごいちに通う人は西洋医療を信じていない人が多いから病院に通わない。だから癌になっても気が付かないだけじゃないか。」という憶測を持たれる方がいるかもしれないが、それは不要な勘繰りである。わごいちの通院者が癌検診や健康診断や人間ドックを受けていないわけでもない。過去の私のブログを読んで頂ければ解ると思うが、私自身からして病院治療を否定していない。むしろ感謝して利用している。通院者もまた同じである。健康意識の高い人たちの集まりであって、西洋医療も民間療法もニュートラルに大事にされていて、おそらく世間の標準以上に健康診断を受けている人たちであることを理解いただきたい。

何百人と言う人たちがわごいちに通い、誰一人として癌検診に引っかからない。いや正確には「ちょっと怪しいから再検査と言われました。」と言った人は数人いたが、すべて再検査で「問題なし」と言われて帰ってきた。つまり医療機関で検査を受けて続けて5年、10年とだって、だれ1人として癌になっていないのがわごいちである。

またこういう人もいるかもしれない。「整体院だから若い人が多いから癌になりにくいんでしょう?」と。しかし実際のところわごいちはあらゆる世代の人が来るし、むしろ比較的年配者のほうが多い。働き盛り以上の「癌の本命世代」ともいう人たちが多いので、この疑問もあたらない。

癌にかかったら病院に行くから、わごいちが知らないところで癌治療しているんじゃない?という人もいるかもしれない。しかしわごいちではそれはまずあり得ない。毎月通うのだから、途中で癌であれ交通事故であれ、なにかのトラブルに合えば真っ先に私達に知らされている。癌であればなおさら「先生癌になりました。どうしましょう。」との相談が入るものであるから、癌にかかって私たちが知らないという事はまず考えられない。

やはり15年で、癌に罹患した人はゼロなのであり、今現在もこの記録は更新されている。



今二人に一人が癌に罹患すると言われる時代である。しかしながらわごいちでは15年癌患者を出していない。

さらにわごいちに出会う前にすでに癌に罹患し、運よく病院治療で一命をとりとめ、再発予防に取り組む人たちも多く通院している。癌の種類によって再発率のばらつきはあるが、実はこの再発予防さえもわごいちでは今のところ完全に成功し再発率0%である。今はネットで各種癌の5年生存率、10年生存率が公表されているから参照されるといいと思うが、「再発率0%」というのは脅威的すぎて、専門家であればあるほど信じてもらい難い数字であろう。


開業以来15年、わごいち定期通院者における

「癌発症率0%」

そして、

「癌再発率0%」

これがわごいちの動かぬ実績であり、単純明快すぎるほどの統計である。




西洋医療の世界で、いや国を挙げて癌治療研究が進められているのは大事なことである。一方で西洋医療も傲慢なところがあり、自分たち以外の研究を卑下するような風潮があるのも事実であろう。

別にそれは私にとってはどうでもいい問題である。ただ私は私なりに事実と誠意に基づいた研究成果を次回の記事で公表することにした。

私は癌は我々の生き方を問う病であると思う。生き方自体が間違っているのだから、たとえ新薬が次々開発されても、決して癌はなくならない。そういう取り組みの方向を変えることが今なにより大事である。


癌への向き合いを通して現代の我々の生き方を見つめ直す。


これこそが私が癌に向き合う本当の理由であると理解いただき、次回をお待ちいただきたい。











三宅弘晃


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by wagoichi | 2017-01-12 00:18 | ガン

本分に生きる一年


すこし久しぶり。長らくぼーっとしていた。


少し長めの正月休みは家族旅行でゆっくりとした。温泉に浸かり酒を呑み、何も考えない時間を過ごした。何も努力しない時間を持った。年に一度くらいは空っぽの時間を持とうと思った。

私が何もしていない間にも、世間も、周りの人間も、その家族も、私の家族も、色々な出来事があったと聞いた。それぞれに悪戦苦闘しているようであった。

湯につかりながらじっと見守っていた。




温泉から見る空が美しかった。雲が様々な姿を見せてくれた。葉を落とした木々はじっと待っていたし、海は満々として穏やかであり、朝霧の立ち上る山は全く動かなかった。

空も雲も同じ姿を見せることは又とない。移ろいゆきながらも空は空であり、雲は雲だ。移ろいゆくのが移ろわないのが空であり雲であろう。

しかし山は動かない。動かないから山であり、動かないことが山である。

雲は雲として、空は空として、山は山として在る。

そんなことをぼんやりと湯の中で思った。




私たち人間にも、雲がいて、空がいて、山がいて、海がいるように思う。

雲のような生き方をする人がいて、空のような生き方をする人がいて、山のような生き方をする人がいて、海のような生き方をする人がいる。

自然界に雲と空と山と海が必要なように、人間界にも雲と空と山と海のような人が必要じゃないかと思う。

空があるから雲があり、雲があるから海があり、海があるから山があって、それぞれの存在がそのまま役割となって互いを生かし合う。その違いと繋がりこそが尊いと感じる。



人にはそれぞれ本分というべきものがある。本分とは持って生まれた素養と、これまでの人生で培ってきた人格によって見いだされる。そう考えるならば、人ぞれぞれの本分というものは思うように変えたりすることは難しい。生まれ持った素養は変えられないし、何十年とかけて作ってきた人格は一朝一夕には変わらない。

まだ10代の思春期ならばいざ知らず、40歳を超えればもう本分には逆らわず、自分の本分を知り、それを生かすことに努めないとなかなか生活が難しくなるのではないだろうか。


私の周りの人たちの出来事をみていると、あるいはニュースなどで世間の人たちを観察すると、どうにも自分の本分をまだ見いだせていない大人が多いように感じる。

雲が山を気取ったり、海が空になろうとしたりしていることはないだろうか。雲は雲として良き雲になるしかない。海はよき海になるしかない。それなのに、自分の本分が雲であることを知らず、友達の海に憧れて自分も海になろうと無理強いするときに、自分も周りも不幸を抱えることになるのではなかろうか。

だから私に相談に来る人たちには、その人たちがそもそもの本分を間違っているときには、「あなたは空じゃなくておそらく雲だよ。」と言ってあげることもある。「ああそうだったのですね。どうりで。。。。」とすっきりした顔になってくれると私も嬉しくなる。




実はつい最近まで、私も自分の本分を見つけ得なかった。

湯に浸かりながら、私は今の世間を想った。世間を想い、自分の本分を想った。



今の人間社会は、雲と空と山と海の違いをそのまま受け入れる度量が少ない、そんな風に思う。空は晴れ渡っていなくてはならないし、山が雲で隠れるとイライラする。周りのことを自分の思い通りにしようと無理強いする。

海があるから雲があることを、雲があるから空であることを、山があるから海が豊かになることを、それぞれの立場から相手の立場を思い遣ることを忘れそうな社会に我々は今生きている。

海の真ん中で山でいることは勇気がいる。青空に浮かぶたった一つの雲でいることは不安になる。皆と同じでありたい。皆と同じ中にいながら、その中で自由を謳歌したい。そういう人生を多くの人が求めている。



本分を自覚し、本分に生きようとする者にとって、今の世はとにかく生き難いものである。本分に生きようとする人間を過剰に崇拝したり、逆に卑下しようとする風潮がある。そしてその風潮を作っているのは、その人たちの無自覚なコンプレックスであると私は考えている。

本分に生きたいと願う人もいるのは知っている。しかしその人たちの多くは、今の時代に本分に生きることの難しさを予見し、ためらい、悶々としながら月日を重ねていることも私は知っている。

だから思う。今の時代に最も必要なのは、自分の本分を知り、自分の本分を貫く強さを持った人間であるということだ。人に何を言われようが、自分の本分を感じ取る純粋さと、それを信じて疑わない強靭さをもつことが大事だということだ。そんな人間が一人でも多くあらわれてくると、人間界も自然界に負けないくらいに多様性に富んだ強くて美しい社会を作っていくことが出来るんじゃないだろうか。


私はこれから自分の本分を力いっぱい育てていこうと思う。それが結果として周りの応援になるならば、何よりであろうと思う。そんな1年を今から始めようとぼんやり考えた。



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三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-01-10 16:01 | 人生

やりたいようにやらせてもらいます

明けましておめでとうございます。

この新しい一年をどう過ごそうか。そんなことを考え、少々手こずった年末年始だった。

と言うのは、近頃こんなことを言う人間が時折いるからだ。


「私も先生方のように自分の仕事に命をかけています」


何度かこんなことを言われて、たいていは同業者であるわけで、その度にハテナ?となる。

「俺らこの仕事に命をかけているのかいな?」

何度も言われるとさすがに気になり、試しに弟子たちに「君らは命かけてます!とかカッコいいこと言ってるんか」と聞いてみたら「いやいやいや」と???が増えるだけ。

「仕事に命をかける」とはどういう働き方になるのだろう。そんなことをこの年末年始に考えていた。



どう考えてみても仕事に命はかけられない。

心臓疾患を持っている人がわごいちに来たとして、自分の心臓を移植していいよとは言えない。どれだけたいせつなお客でもね。腎臓なら2個あるからいいかな、、、いや無理だ。

我々がお客のことを大事に思う気持ちは嘘じゃない。どこにも負けないという自負はある。でも命をかけて守ります、と言えばそれは嘘になる。だから言わない。

もちろんわごいちを見て「命を懸けている」と言う人が、我々に心臓移植までを期待して言っているのではないことはわかる。わかるからこそ、じゃあ何でこの人たちはいちいち私にそんなことを言ってくるのか?がわからなくて考えていた。



考えた末にようやく思い至ったのは、この人たちは一見命を懸けているような我々の働き方の根底にある何らかの感覚的なもの、あるいは思想的なもの、そう言うものの迫力要素を取り出して「命懸け」と言う言葉で表現したんじゃないだろうか、と言うことだ。

それであれば確かにわごいちには、他にはない独特の雰囲気と言うべきものがあるかもしれない。多くの人が「温かい空気」「凛とした雰囲気」「叱られるのは怖いけどそれが必要」そんなことを言う。こう言う雰囲気はあまりみないだろうとは思う。

この迫力要素を伴うわごいちの雰囲気は何から生まれているんだろう、そう考えが進んだときに少し面白いことが発見できた。それは自分達が何を求めて働いているのか、と言うことだ。

人は我々に向かい「お客さんや世間の困っている人たちのことを真剣に考えて下さってありがたいです。」と言って下さる。こう言われる度にありがたさの中にも畏れ多い気持ちがそわそわと心の中で浮遊する。確かに真剣に思う気持ちは存在する。しかしその気持ちと裏腹に全く違う気持ちもまた存在することを私は感じ取っている。

人は矛盾だらけの生き物だと言うことは日々痛感することである。人だけじゃなく、動物も植物であっても矛盾だらけ。生そのものが矛盾ではないかと思うくらいである。

しかし多くの人は自分の生の中の矛盾に戸惑うことが多々あるように思う。自分はこういう自分のはずなのに、どうしてこんなことを感じてしまうの?と自分の心を責め、認めようとしないことがある。

わごいちはおなかを触るから、深く深く触るから、人の中の矛盾も、その矛盾に悩み心身のバランスを崩すこともよく知っている。その無意味を体感的に知り尽くしている。だからこそ我々は、いやまだ弟子たちは未熟だから私はとしておくが、自分の中の矛盾に際立って寛容な人間になってしまった。

わかりにくいな。端的に言おう。

私は人様のために生きたい。未来の子達のために死にたい。これは紛れもない本心である。そして同時に自分のために生きたい。幸せに生きて幸せに死にたい。これもまた本心なのである。

私が毎日丹練をして技術向上に励むのは、お客のためである。そして同時に自分の為である。腕は誰にも負けたくないのだ。誰かに負けていると言うのが耐えられないから丹練をしているのだ。

弟子たちにはうまくなってほしい。弟子への指導は真剣であり、少しでも本当の技術を伝えてやりたいと思って指導している。が同時に、弟子には負けたくない自分もちゃんといる。最高の教えを授けながら、自分はそれ以上の成長を遂げていないと不安になる。(そんなことはまだ一度もないが、、、、)

先ほどテレビで筋肉番付をやっていたが、ライバルがクリアしたとき互いに拍手をする。嬉しいけれど悔しい、どちらも嘘じゃない、あれも一つの純粋なる矛盾と言っていいのではないか。


皆さんは私に多くを求め、深みを期待する。陰で仙人と言われているとも漏れ聞いた。しかしそれは私のごく一部であって、私のむき出しの生存本能についてはどれ程知られているだろう。

私が率いるわごいち軍団は、おそらく皆さんが思っているよりもはるかに本能をそのまま大事にしている。ひがみや嫉妬も押し潰さない。ゴミ箱に押し込めないで、ちゃんとまな板の上にあげて料理する。自分を知り、自分の力を活かすために。そのためにはありのままの自分を認めなくては始まらないのだ。我々にはむき出しの生存本能が必要なのだ。

屋号の「和合一致」はそういう意味も持つ。

そういう意味ではわごいちは非常に原始的で人間的で、ある意味子供のような幼稚性を持つかもしれない。そんなことを思った。

ただわごいちが変わっているのは、その幼稚性が徹底していることだとも思う。「役に立ちたい。そして勝ちたい。」わごいちのこの一心は分別がつき始めた子供そのままであり、大人の分別は徹底的に排除される。言い訳はわごいちの仕事では許されない。

我々は本気で癌をなんとかするつもりでいる。そして本気で世界一であり続けようと思っている。我ながらなんと幼稚なことよと微笑んでしまうくらいに。

でも和合一致を掲げる以上、これで行くしかないのだろう。


「先生方のように命懸けで仕事に向き合いたい」という人はおそらく、この我々のむき出しの幼稚性が醸し出す迫力を感じ惹き付けられているのかもしれない。私もそうありたいと感じたのかもしれない。

また少し我々の取り組みが美化されている気配を感じるのは、多分にそこにお世辞を含むにしても、ここ数年の我々が「人のために」の方に片寄りすぎた反響なのかもしれない。「自分のために」と言うむき出しの生存本能に雲が掛かってしまっていたのかもしれない。

整体を施術するにしても、丹足を指導するにしても、講演するにしても、これでは良くない。和合一致のバランスを崩している。

そんな風に考えて、今年のテーマにようやく行き着いた。

わごいちは原点である和合一致の精神を今一度大事にする。人を思う気持ちも、自分を思う気持ちも、どちちも大事に育てていく。

その上で「人のために」へと傾きすぎた舵を今一度「自分のために」へと切りなおそう。



「やりたいようにやらせてもらう」



と心に刻み、一日一日を大事に生きていこうと思う。

どうぞ本年も宜しくお願いします。










三宅弘晃

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・四股700丹


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by wagoichi | 2017-01-02 01:59 | 仕事



ようやく癌解説2つ目完了。3つ目が・・・3つ目が大変なんだよ。テーマは決まっているが、どう伝えたらいいのか。。。。ああぁぁ
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