照千一隅への道のり

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西郷さんの仕え方


今日は、朝のお茶の時間にスタッフたちに話した雑談から。(内容は私の勝手な解釈である)


・・・



最近西郷隆盛に関するニュースをいくつか読んだ中で、西郷さんが犬を大事にする理由について興味深い逸話があった。

趣味の猟で役に立つからとか、刺客の接近を犬が察知してくれるからとか、そんな理由を読んだことはある。お座敷にも一緒にあげたとか、うな丼を2人前注文して犬と1人前ずつ食べたとか、十数匹も飼っていたとか、西郷さんの犬への愛情を示すエピソードは多い。

そんな西郷さんの犬好きの理由についてこんな説があるという。西郷さんは主人に忠誠を尽くす犬の姿をみて、自分も犬に負けないようにしっかりと仕えよう、と自分を固く戒めていたというものだ。

真偽はともかく、なるほどと妙に納得した。


明治維新で大事業を成し遂げ、陸軍大将にまで登りつめながら、自分が作ったと言っても過言ではない明治政府を下野し、果ては西南戦争で敗死するという不思議ともいえる西郷さんの人生の変遷。それがこの犬に学ぶというエピソードを聞いて、腑に落ちるところがあった。

思うに西郷さんは「仕える人」だったのではないだろうか。

我々は、あまりの偉業につい偉大なリーダー像を西郷さん対して押し付けていたのかもしれない。西郷さんは常に遠大なる国家観を持ち、それに基づいて皆を導いていくリーダーであると決めつけていたのかもしれない。

しかしその実、西郷さんは最初から最後まで終始一貫してリーダーではなく「仕える人」であったのではないか。仕えることで生き甲斐を得る人であり、導くのは西郷さんの本分では無かったのではないか。そんな西郷さんが仕える相手として認めたのは、結局最後まで島津斉彬公ただ一人しかいなかったのでは・・・・

そんなことを思った。



斉彬公が無くなった時、西郷さんは「仕える人」を失った。それまで斉彬公の理想を実現することに生き甲斐を得てきた男が、「仕える」という生き方自体をも失ってしまったことを意味した。

その後入水自殺を図り、島流しの刑をうけ、再び表舞台に復帰してからの西郷さんは、葛藤の中であがいていたようにも想像できる。斉彬公はもうこの世にいない。しかし探しても他に自分が仕えたいと感じさせる人物はいない。

もう自分の人生は終わったという諦観と、友や全国の士族からの期待。その狭間で揺れ迷いながら、ただひたすらに亡き斉彬公の意向を辿るように倒幕という大事業を成し遂げること、そこに自分の生き甲斐を得ようとした。

この斉彬公が亡くなってから明治維新までの大活躍の期間は、実は西郷さん自身にとってはもはや半分死に体としての活動ではなかったか。それはつまり主人を無くした犬が、主人の思い出を残す家を守るようなものだったのではないか。待てども待てども主人は帰ってこず、自分を使いこなせる新しい主人も現れず、神輿の上に担ぎ上げられながら心の中で慟哭を繰り返す日々ではなかったか。それならその後の下野、そして西南戦争へと続く不可解ともいえるいきさつが説明できるのではないか。

実は西郷さんに国家観というような物は初めから無く、唯一斉彬公に与えられ、そして公と共に失い、あとは時代のムーブメントに不本意に担ぎ上げられた人生であったのかもしれない。

そんな風に思った。


かの大西郷にしてこの「仕え方」である。これだけの人が「仕える」人生をを求め続けた。だからこそあれだけの人望を集めたとも言えはしまいか。もしそうであるならば「仕える」とは一体どういうものなのだろう、そんな話をスタッフたちにした。








・・・以下本ブログ用の追記・・・





仕えることは損な事である。仕えるのは利用されることである。人に仕えようなどと危いことはなるべく考えないで、自分の権利をしっかりと守らないといけないのである。

今はそんな時代になりつつある。


確かに、私利私欲に憑りつかれたリーダーに仕えることは危険でさえある。ブラック企業にしがみついて人生を無茶苦茶にされるよりは、ホワイトな企業に転職して適度に割り切って働くほうが無難であるのは間違いがない。給料をもらった分だけ働く。お金を払ってもらった分だけサービスする。団体の利益より個人の生計を大事にする。独立・自立に近づけていく方がいい。多くの人がそう考え、だからこそ社会はそういう方向に進んでいる。


しかしこういう人たちが1つだけ見落としていることがある。

社会の中の人間関係に於いて、「自立」は非常に危うい立場であるということだ。「仕える人」と「導く人」(つまりリーダー)の共生関係に対して、「自立」という独り立ちは一見自由でありながら実はとても不自由であるという事実である。


「自立」それは素晴らしい響きに聞こえる。嫌味な上司や、尊敬できない経営者や、支配的な伴侶や親にうんざりしきっている人にとっては、そこからの「自立」はそれだけでバラ色の将来が垣間見えるような感じがすることであろう。

その一方で、今の状況に悩みながらも脱却できていない現状があるという事は、それ相応の理由があるという事である。経済的な理由、人間関係のしがらみ、道義的な問題、などがあるかもしれない。しかし突き詰めて考えると、「思い切って自立できない自分がいる」ということになるのではないか。

これがとても大事なポイントとなる。

自分は今の生活にうんざりしているのに、この生活から脱却したくて仕方がないのに、それでも脱却の決意を固めることができない。決意をしても行動に移すことができない。これはどういうことかと言うと、それはその人が「仕える人」であるということを示しているのではないだろうか。


日々人々と話して思うのは、日本人の多くは「仕える人」であるに違いないという感触だ。斉彬公の様な生来の「導く人」は非常に希である。西郷さんのような「仕える人」のタイプはゆうに99%を占めているように感じる。

1%の「導く人」は迷わずリーダーとなって周りを導けばいいし、多くの場合実際にそうしている。面白いことに「導く人」は、自分が「導く人」であることを知っていて、迷わず「導く人」になっている。


問題は「仕える人」である。

「仕える人」のうち、何割かの人は気質に反して「導く人」になってしまっている。ならされている人もいる。こういう人たちは大変な苦労をしながら、徐々に学習して「導く人」になっていくこともある。

しかしこういう人はまだ少ないようであり、「仕える人」の多くは「仕える」ことを嫌い、さりとて「導く」ことにも挑めず、その中間で悩み苦しんでいる。悩み苦しみ、その結果として「独立・自立」という道を採ろうとすることも多い。でも実は中途半端な「自立」ほど虚しく弱い立ち位置はない。

人は「導く」と「仕える」の関係によって助け合い、互いに高め合うことができる。類まれな感性や才能を持った人間が、それを仕える人に提供する。それを受け取る人間は、一心な努力をその返礼として導く人に差し出す。それぞれの適性を無理なく発揮できる集団はやはり充実する。

一方の「独立・自立・孤立」では、所詮1人の力である。そんな人間が寄り集まっても足し算になっても掛け算にはならない。結局やりたいことがなかなか実現できず、1人で悶々と悩んだり、仲間との不和に苦しんだりして、結局不自由な活動となる。

「仕える人」は、仕えるのが嫌だと言ってむやみに自立を求めたり、表面的に仕えながら心は自由であろうなどという傲慢な生き方を選ばないように気を付けないと、何をしているかわからないような毎日を過ごすことになりかねない、と多くの人を見て私はいつも危惧している。



思うに、「仕える人」が「仕えることに徹する」ことができれば、人生はとても豊かになる。


若き日の西郷さんが、斉彬公のお庭番として公の想いを聞き、共に悩み、手足となって駆け回った日々がどれほど充実した時間であったろうかと想像するだけでこちらの胸が熱くなる。この胸の高鳴りと火照りは、心底から仕えたことのある人ならば自分のことのように想像できると思う。


しかしわずか100年ちょっとで世の中はすっかり変わってしまって、「導く」「仕える」という関係性が徐々に忌み嫌われ出している。その狭間の所で、「自分の能力を生かす」とか「自分の個性を生かす」とか、「自立」の価値観に覆われた社会になってきている。



でもここはもう一度立ち止まりたい。


あの大西郷でさえ、仕えることに徹した。斉彬公という「この人こそ」という人に出会ったら、もうその人に仕えることに自分の人生を投げ出すほどに仕えきった。

西郷さんは自分の写真を撮るのを嫌がったとも聞く。(だからいろいろな本物でない西郷さんの顔写真が出回っているという。)「自分」を打ち出すのを嫌い、ただひたすら仕えようとし、そこに自分の成長と人生の悦びを見出してきた人生だったんじゃないだろうか。



今一度じっくりと自分を見つめ直したい。自分は「導く」のか。「仕える」のか。決して導くのが偉いというものではない。楽なものでもない。「導く」のは導くのでまた苦しく寂しく厳しいこともある。また「仕える」のは決してへりくだったり媚びる事ではない。毅然として心強く「仕える」覚悟が必要である。

自分を知る。自分を知って、自分を活かす相手を求める。自分だけの自分ではなく、相手と繋がる自分でありたい。そんな相手が見つかれば一心にただ一心に自分の本分に徹し、相手と心をあわせ力をあわせ理想に向かって努力する。



これ以上の生き方があれば、私に教えてほしい。








三宅弘晃

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by wagoichi | 2016-12-25 15:56 | 仕事

日本人の拠り所


あなたは「拠り所」をもっているだろうか。

「拠り所と言う場」は少し特別な意味を持つのかもしれない。「たまり場」とは違う。拠り所には共通の感情や感覚があるがたまり場にはそれがない。「寄り合い」ともまた違う。拠り所には、皆が心を寄せる中心があるが、「寄り合い」には中心がない。寄って集まっているだけである。

今の日本社会を見渡してみるに、「たまり場」や「寄り合い」は無数にあるが、近しい感情や感覚を持つ人たちが中心をもって集まる「拠り所」というべき場所が非常に少ないことに気付く。(だからこそその反動として新興宗教が力を持つのかもしれない。)



私はいつの頃からか、「拠り所」という言葉に思い至り考えるようになったのだが、そのきっかけは天皇制である。学校で教えられる「天皇は象徴である」というフレーズ、何度聞いてもしっくりと来ないでいたのが、ほんの数年前に「拠り所」という言葉に行き当たった時、スッと腑に落ちた感覚があった。

考えてみれば「象徴」というのはとても不可解な定義である。捉えどころがなく、どのように受け取り、どのように向き合ったらいいのかとても分かりにくい。すごく大事なようで、すごく遠い。ともすれば実在さえしないような気さえする、そのような感覚を持たされそうになる。


しかし今の天皇陛下は決して遠い存在で終わろうとされていないように感じる。地震や津波で大きな被害を受けた地域に足をお運びになり、一人一人目を合わせて声をお掛けになる。それを望まぬ人もいるだろうが、目に涙を浮かべて感動する人は多い。「ありがたい。またがんばるぞ。」と力を得られた人は日本中に無数にいるのではないだろうか。

はたしてこの役割を総理大臣に肩代わりできるだろうか。総理大臣は政策面で復興の後押ししつつ時に被災地にも足を運ぶが、天皇 皇后陛下の前で目を潤ませている人たちの顔を見るに、そこに総理大臣とは違うなにか特別の感情があることは明らかであろう。


今日本の天皇制は大きな岐路に立っている。象徴と言う分かりにくい存在から、憲法改正を経て「元首」といういかめしい存在に変えることも模索されているという。それには天皇陛下ご自身はあまり賛同されていないとも漏れ聞く。

一方で生前退位の検討もされている。天皇陛下のご意向をどうとらえるかは難しいが、私はまず象徴とは何ぞやということからもう一度考えてもいいと思う。天皇陛下御自身のこれまでのお言葉と行動を考えてみるに、天皇陛下の考える象徴とは「日本人の拠り所」たらんとお考えになっていると感じてならない。元首として御簾の奥に鎮座されるよりも、苦しんでいる国民ひとりひとりのもとに足を運び、顔をみて勇気づけ、心の拠り所になることを志しておられるように映る。

もしそうであるならば、高齢のために国民の身近へ足を運ぶのがままならないというのは、天皇陛下にとってなにより不本意であろうことは想像の及ぶ範囲である。摂政に代役が務まるはずもないのもまた明白である。

生前退位は、決して政治や法律の論理だけでなく、これまで日本人が歴史を通して培ってきた精神性、今のそしてこれからの天皇と国民の関係性、そういうところからも丁寧に議論されることを願ってやまない。














三宅弘晃

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by wagoichi | 2016-12-20 12:18 | 世界

話せばわかる・・・か



今朝、心斎橋で喫茶店に入ると女性客が一人いた。旅行者らしくスーツケースを横に置いてタバコを吸っている。煙がかからないようなるべく遠いところに座ってコーヒーを飲んでいる私のところへ、その女性が近づいてきた。

彼女が私にスッと差し出したスマホの画面には「海賊王フィギア」と表示されていた。その他は中国語で読めない。

「これ?」

と聞くと、黙ってうなずく。

「ここに行きたいの?」

と聞くと、黙ってうなずく。
困った。日本語は通じないみたいだ。

「ニアヒア?」

と聞くと、?な顔をする。
困った。私の怪しい英語は通じないみたいだ。

多分このあたりで海賊王のフィギアのイベントかショップがあろうのだろう、とは予想がつく。でもあまりにも情報が少なすぎやろ。

言っても仕方がないので、自分のスマホで「海賊王フィギア 大阪」で検索すると、それらしいのが出てきた。あべのキューズモールでワンピースフィギアのイベントをしているショップがあるらしい。


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「これ?」

と画面を見せると、うなずく。よっしゃよっしゃ。


さてここからが問題である。どうやってそこまで自力で行ってもらうか。

「ユーハフトゥーテークアサブウエイ」

と再度怪しい英語を繰り出すも予想通り「?」な顔をする。懲りずに「トレイン アンダーグラウンド」と続けると「JR?」と近づいてきた。「ノーノー」と言いながら人差し指を地面に向ける。そして「アンダーグラウンド」と再び言うと、「OK!」とうなずく。よっしゃよっしゃ。

「ユーハブメモ?」と言いながら手で書く真似をする。もはや我がイングリッシュは儀式と化した感があるが、意味は通じたようでカバンから紙とボールペンを持ってきた。

こう書いた。

「私は天王寺駅にいきたい。」
「私はキューズモールにいきたい。」
「心斎橋」→(SUBWAY)→「天王寺」→(WALK)→「あべのキューズモール」

今あなたは「心斎橋」にいるんだよ。ここからサブウエイにのって「天王寺駅」に行って、そこからウォークで「あべのキューズモール」に行くんだ。サブウエイでは「私は天王寺駅に行きたい」と近くの日本人にこのメモを見せて、天王寺駅に着いたら「私はキューズモールに行きたい」とこの紙を見せたら教えてくれるから、とメモを指差しながら説明した。

もちろんぼでぃらんげっじでね。

苦節15分。すごく嬉しそうな笑顔を残して彼女が去り、冷めたコーヒーが手元に残った。




どうも私は中国人によく道を訊かれる体質のようだ。

あまりにもしょっちゅう訊かれるので、でも中国人が最近大阪には多いから皆そうかと思って君らはどうや?とスタッフたちに聞いても、彼女たちは全然そういうことはないらしい。わごいちスタッフの中では私だけが狙い撃ちの状況のようだ。

きっといつも親切に教えるから、その筋では有名なんだろうというのが、我々の仮説である。中国人向けガイドブックに「大阪の親切な人」特集で載っているんじゃないかという噂もある。もしそうなら少々迷惑な話ではある。

でも実は言葉の通じない人と何かを話すというのは嫌いではない。なぜなら言葉が通じなくても伝えたいという熱意を感じるからだ。




私は大阪外大を卒業しているが、言語をそれほど大事なものとは思っていない節がある。単に不勉強の言い訳かもしれないが、大学時代に言語を勉強してみて思ったのは、言語は最重要じゃないという皮肉な事実である。


それを今、改めて痛感している。

同じ日本人なのに、同じ日本語を話しているのに、話が通じないことが多い。同じような顔立ちをして同じ言葉を話して、話す言葉は理解できているのに、思いが通じない。言葉が虚しく霧散する。時折日本にいながら見知らぬ外国に自分がいるような気がすることがある。

熱意をもって伝えようという人が少ないからかもしれない。



言葉が通じれば気持ちも通じるはず。それは楽観的思い込みであろう。

話せばわかると言うけれども、言葉と言うのは熱意を持ってこそちゃんと聞こうという気になる。別にどっちでもいいんですけどなんて言いながら日本語をしゃべられても、「聞こう」という気にはなれない。自分が熱意を持たないことを「話そう」という気にもならない。

熱意なき言葉と独り言にどれ程の違いがあるだろう。



言葉が通じることで甘えてはいけないね。

やはり人と向き合う時には、互いに正面を向いて話すのが大事。熱意を交わす会話を重ねたい。


初めて入った店だったけど、マスターにも丁重にお礼を言われた。

コーヒーは冷めちゃったけど悪くなかったよ。






三宅弘晃

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by wagoichi | 2016-12-17 14:48 | 戯言

○○の文化



まずはこの写真を見てほしい。(全ての写真:代表撮影/ロイター/アフロ)



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何か感じないだろうか。。。。。




じゃあ次。



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どうかな。


これらの写真は、言うまでもなく今回の日ロ首脳会談のものである。

想定通りプーチンさんが(わざと)遅刻して、すっぽかされるんじゃないかとあたふたした末に出会えてホッとしている安部さんを手玉に取るの図。(詳しくは昨日の記事へ)


さて、この二人を見比べるとひとつ大きな違いがあるのだが、気付いた人はどれだけいるだろうか。。。。





わからない?


じゃあもう一度。
特別大サービスでヒントをあげるよ。



二人の「ハラ」に注目!!!


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はらはら


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わかったかな。





「ボヨン」と「ズシン」の違いが。



覚悟を決めているハラ。普段から鍛錬をしているハラ。そういうハラは「ズシン」とする。

「ボヨン」はその逆だから説明はしないね。




もともと日本人はハラの文化を持っていた。

何よりハラを鍛え、何事にも動じないハラを作ってきた。サムライが世界に怖れられたのも、日本人のハラの文化があってこそ。


でも今、ハラ文化はロシアに行っちゃったのかな。


ネットの反応を見ていると「プーチンはしたたかだ」なんていう声もあるようだけど、外交は友愛だけじゃできないんだから、したたかに、しかし相手の顔も立てながら、最終的に納得に持っていくのが外交でしょう。それにはハラがいる。ハラが弱い奴は終わってから負け惜しみを言うしかない。




でも安部さんだけがハラが弱いわけじゃない。

総体的に我々現代日本人のハラは弱くなった。ズシンとしたハラを持つ人間がほとんどいなくなって、皆ボヨンとしてきた。これまで1万人のハラを揉んできた私が言うんだから間違いない。ほとんど皆ボヨンとしている。


このボヨンは単に腹筋が弱いというだけじゃなくて、むしろその中身が問題になってくる。ハラの表面じゃなくてハラの中がボヨンとしている。

どうして中身がボヨンとしているかと言えば、ボヨンとした人生を歩んでるからだ。「我に七難八苦を与えたまえ」と天に祈った山中鹿之助は特別としても、現代のように上手に世渡りしようとばかりしているとハラがボヨンとしてくる。

ボヨンとしたハラはちょっと小突くとすぐに震え上がる。ボヨンはズシンに絶対に勝てない。小細工で勝ってもいずれひっくり返される。だからこういうハラをしていると、文字通りハラの座った仕事はできないものだ。

だからもっと我々は、今こそ我々は、今一度ハラを鍛えなくちゃいけないのだよ。




そんなことを念頭において、もう一つ見てみる?

ちょっと見えてくるんじゃないかな。


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どうかな。

ズシンとボヨンが見えたかな。全然違うでしょう?



今どきの日本人はハラが弱くなっただけではなく、ハラの見方も忘れてしまった。ハラを見ることがなくなった。

だから今日は特別に「ハラの文化比較」をしてみた次第だ。これからそれぞれの生活で、人生で、ハラと言うものにも着目して自他を見つめてみてはいかがだろう。きっとこれまで見えていなかったものが見えてくるはずだ。これ大事だよ。

ハラを見よう。そしてハラを鍛えよう。





ところでこの二人のおかげで、我が闘志に火が付いたのか、今日はとうとう1000丹越えを実現。

目標はまだまだはるか遠くだけれども、地道な丹練で我がハラは着実に強くなっている。


プーチンに負けてはいられない。日本人を舐めてもらっちゃ困るってやつだ。









三宅弘晃

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by wagoichi | 2016-12-15 23:28 | 丹練

プーチンは食わねど高楊枝


武士は誠に大変である。

戦時の主役である彼らも、平時においてこれほど無用の長物はない。「万が一の戦争に備えて」あるいは「抑止力として」存在し、平時においては何も生産せず、ただ皆から食わせてもらっている。

「あいつら必要なのか?」と陰口を叩かれることもあろう。太平の世で収入は減り、生活は次第に窮乏し、金に困ることもあろう。それ見たことかと札束で顔をはたこうとする金貸しもあろう。あわれみ食べ物を恵もうとする農民もあろう。

しかしその際に「俺は困っていないぜ」と、高楊枝を咥えて平然と構えているのが武士たる者の心得である。


なぜか。


それはなめられたら終わりだからである。相手になめられたら武士としての存在意義がなくなる。町人や農民に哀れまれたら、いざという時に武士として立てなくなる。敵が不意に攻めてきた時に皆が武士を頼らなくなる。頼りのなくなった町人や農民は、オオカミに襲われ四方八方にただ逃げ惑う羊の群れのごとく化し、敵に蹂躙されること必定である。これでは武士の仕事が全うできない。

万が一の確かな守り人として、武士は平時から威厳を保っておかねばならないのだ。

その心得を叩きこむために、自分の仕事を全うするために「武士は食わねど高楊枝」と自分に言い聞かせ、空腹に耐えたのだと思う。私がとても好きな言葉の一つである。




整体師も似たようなものである。

いくらリピートが欲しいからって「お疲れですね。自分の体にもご褒美を与えてあげてくださいね」なんて歯の浮くようなリップサービスは気持ち悪いだけである。

例えお客に嫌われ収入が減ろうと、毅然と「そんな生活習慣では病気になりますよ」と言うのが整体師の仕事である。言うべきことを言い、技を駆使してお客の健康を守るのが仕事であって、整体師が威厳を失ってはお客の体は守れない。

整体師も食わねど高楊枝である。楊枝を高くくわえ腹を空かせ、必死で腕を磨くのである。




いや、今は整体師のことはいい。

どっちかというと今私が興味があるのはロシアのプーチンさんである。




大変なのは本当はロシアのはずだ。

西側諸国の制裁で、資源価格の低迷で、経済はガタガタである。

日本経済もなかなか大変とはいえ、ロシアほどには困ってはいない。日本も北方領土の問題を解決はさせたいが、今現時点で本当に困っているはずのロシアがどうしてこれほど優位に交渉を進めているのだろう。誠に不思議、を通り越して見事である。



思うにプーチンさんは「武士は食わねど高楊枝」を決め込んでいる。

「俺は別にどっちでもいいんだぜ。あんたらが話し合いをしたいんなら、金次第では相談にのってやるぜ。でもあんまり甘えたこと言っちゃあ破談にするから気をつけな。」

このようなスタンスでプーチンさんは、歴史に名を残したくて焦る安倍さんを手玉に取り、政権に追従し騒ぐだけの日本のメディアを翻弄している。

プーチンは見事だ。流石に体を鍛えているだけのことはある。一方の安部さんは。。。。お腹に難病を抱えながら大好物のアイスを食べている。

残念だけれどどこれでは逆立ちしても勝ち目はない。




「武士は食わねど高楊枝」


仕事が戦いであるならば、政治家も経営者も官僚も会社員も職人も、皆武士の様なものであろう。

であるのに、皆目先のことばかり心配している。仕事は首にならないか。会社はつぶれないか。周りの評価はどうか。年金はもらえそうか。目先の心配ばかりして、誇りや威厳をもって自分の仕事に向き合う人が少ないように思う。

当面の先行きが不安でも、いちいちじたばたしないでドンと構えていればいいのである。人生そういう時も必ずある。命までは取られない。またいずれ機会はやってくる。それまで腕を磨いておけばいいのである。

焦ることは何もない。目先の利益や不安に振り回されては、人間がちっぽけになってしまう。


腹が空いたまま楊枝を高く高く掲げる。それもまた人生ではなかろうか。









三宅弘晃

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by wagoichi | 2016-12-14 17:29 | 人生

呑み同志


わごいちではしばしばスタッフで吞む。


仕事上がりに院で呑むときは、あり合わせのアテでとっておきの酒を吞む。昨日は蕎麦と生ピーマンで頂き物の酒を呑んだ。豪華な料理があれば嬉しいが、無くても全然平気なのがわごいちの呑み会のいいところ。


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最近サラリーマンのおやじさん達の、嘆きを通り越した諦めのフレーズをよく聞かされる。

「最近の若いもんは誘っても飲み会には付き合いませんわ」

「僕らの若い時は上司や先輩に誘われたら絶対に行ったもんですけどね」

おやじさんたちの気持ちが痛いほど分かる。

しかし同時に、若いもんの気持ちもまたよくわかる気がする。





4年間のサラリーマン生活で、何度も上司や先輩に飲みに連れて行ってもらった。とりあえず新卒1年目は金を出させないという男気のある先輩も何人かいて、何度も先輩たちにご馳走になったりしながらお付き合いさせて頂いた。


楽しいことも面倒なこともあった。


新入社員と言うのはある意味便利屋で、話題も提供しなくちゃいけない時もあるし、馬鹿にならないといけないときもあるし、それが出来ないと「使えん奴だ」と先輩になじられることもあるし、その間も先輩や上司たちの追加注文にも走らなくちゃならないし、その辺の手配の段取りが悪いと「使えん奴だ」と叱られたりする。

しかしそういう中で仕事のヒントをもらったり、勘違いをそっと諭してもらったり、違う職場の人と打ち解けてその後の仕事がしやすくなったりと、呑み会の効用とでもいうべきものも確かにあった。



が、それでもやっぱり「あの呑み会は楽しかったか?」と言われると、素直に「はい」とは言えない自分がいる。

さらに今時となると、もう散々な感じがする。声だけ大きいがそんなに楽しそうでないのだ。居酒屋で周りの会社員達のテーブルを見回してみるに、「あのテーブルに入りたいか?」と訊かれると、「いやだ」と絶対に拒否したくなるような呑み会がよく目につく。

どうにもこうにも今どきの会社員の呑み会がつまらない、そんな風に思う。大きなお世話だろうが。

そんな時に考える。もしこの呑み会のメンバーが若き日の松下幸之助や本田宗一郎のごとき人物であったなら、どうだっただろうか。大盛り上がりで人がどんどん集まってくるんじゃなかろうか。




呑み会の一番のアテはなんだと思う?


料理は一番のアテにはならないよ。

これまで料理自慢のお店や友達の呑み会に参加してきたが、それはそれで美味しくて幸せなのだが、それで終わりになることも多いのである。

「これ美味しいね。」「これも美味しいね。」「どうやって作ったの。」「これはねぇ、食材を特別に取り寄せてねえ。」なんて話も楽しいし一時の話題にはなるが、それだけで終わってやっぱり物足りないのである。そういう呑み会(食事会)はいずれネタが尽きたら飽きてくる。そういうもんである。

やっぱり話題が大事だろう。

呑み会の話題として時事ネタや世間話から始まるにしても、徐々に話は交わり時にぶつかりながらも人生の核心に迫り深まるような、そんな議論が一番の呑み会のアテになるように思う。

「なんで働くのか。」「この会社は社会の中でどういう役割を担うべきだろうか。」「従業員家族の幸せってなんだ?」「働く喜びって何だ。」「どうすればこの会社が良くなるか。」「その為に自分がすべきことはなんだろう。」

こういう議論が盛り上がる呑み会が、はたして今の日本にどれだけあるだろうか。何パーセントかはあるのだろうか。

この議論を深めていこうと思えば、それぞれが仕事と人生について常日頃から考えていなくてはならない。果たして、そんな会社員がどれだけいるだろうか。


「会社の利益」と「自分の評価」


現在の多くの会社員はこの二つに囚われているように感じる。会社が儲かってちゃんと給料を貰えることが大事。自分が頑張った分だけ評価されて、給料や昇進に反映されることが大事。それだけ。家族や社会は会社と完全に切り離されている。家族には生活費を持って帰り、社会には税金を払えばいい。それだけ。


もし仮にそういう人たちが集まって呑み会をしたところで面白いはずがない。評価とかお金の話になると愚痴になるし、じゃあ違う話題はというと、もう同僚や取引先の誰かの噂話くらいしかネタがない。そんなネタをアテにしても酒がうまいはずがない。議論も深まらない。たまになら面白いかもしれないよ。でも毎週毎週そんな薄っぺらい話じゃあうんざりだよ。



せっかく生まれてきたんだから、この限りある人生を有意義なものにしたいというのは、誰もが持つことを許される願望であり、その形としての「志」であると思うのだが、しかし今の会社の多くは、この「志」を抑圧こそすれ、認めて伸ばしてくれるようなことは滅多にしない。

そんな会社の呑み会に、新入社員が参加したいと思わないのは至極当然のことだと思う。本能的につまらなそうと分かるんだろう。だからここはおやじさんさん達にもよく考えてほしいし、同時にただ無気力に会社にしがみつくだけの新入社員も残念に思う。



私は4年で会社を去り、自分で開業して、小さいながらも二人の従業員を預かっている。そして時折皆で吞む。

馬鹿話もするが、呑み会を通して基本的に我々は同志であると感じる。上司と部下、経営者と従業員、師匠と弟子、いろいろな関係性をもってはいるが、基本的には私は彼女たちを同志だとみなしている。

それぞれの人生を豊かにするために、それぞれの人生を賭けて世に貢献するために、自分たちはどう歩むべきか、その中で自分はどういう歩みをしたいか、それぞれの「志」をアテに吞みながら飽きることなく話を重ねる。

共に呑み、志をぶつけ合い、さらに前に進み、また呑む。この繰り返しによって我々は一歩一歩前進していっているように思う。






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会社から呑み会が消えるのは、その会社にとって危険サインではなかろうか。会社が「志」を語る場では無くなりつつある、そんな暗示ではなかろうか。

呑み会は無くしちゃいけないと思うな。例え酒が飲めなくても、美味しいアテが無くても、「志」さえあれば呑み会はおいしく成立する。そういう呑み会が実は一番楽しいんだよ。







弘晃


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by wagoichi | 2016-12-13 16:36 | 戯言

鳥の一生 人の一生



つい先日のこと。

屋上でいつもの丹練をしていると、見慣れぬ小鳥がやってきた。渡り鳥だろうかスズメくらいの大きさで尾は長く、白と黒に染められた体が美しい。

何を思うか10メートルほど離れた金網フェンスの上でこちらを見ている。いつもは孤独な一人丹練に予想外の来客は心和ませ、丹練も一層の力が湧いた。

少ししてふと思った。「この鳥はもしかしたら不思議なのかもしれぬ。」と。




ー ー ー ー ー



何をみているんだ。

- 何をしているの?

丹練だよ

- たんれん?

そう丹練。体と精神を鍛えているんだ。

- なぜ?

なぜって体を強くするためだ。

- 体は強くしないといけないの?

そりゃあそうだろう。体が弱いと何もできない。

- 丹練しないと体は弱いの。

そうだよ。あたりまえじゃないか。

- あたりまえ? 僕らは丹練しないけれど、体弱くないよ。

そりゃあ、そうだろう。鳥だからね。

- 鳥だから?兎も猿も丹練しないね。人間だけは丹練しないと体が弱くなるんだ。

・・・

- 不思議だね。

・・・

- どうしてだろうね。

・・・・それは多分、君ら野生動物は生きていることそのものが丹練なんじゃないかな。

- 生きていることが丹練?

そう、君らは生まれた瞬間から自然の摂理の中にいる。外敵に狙われ、飢えや寒さに襲われ、常に命が危険にさらされている。そして実際にかなりの確率で淘汰される。

- うん、一緒に生まれた兄弟は皆死んじゃった。

君だけが残った。それは君が運が良かったからかもしれないけれど、生き残る強さがあったんだね。

- ふーん。

生き残る強さがあり、生き続ける強さがある。だから今生きている。

- ふうん。そういうものかな。

うんきっとそういうもの。しかもそれだけじゃない。

- まだあるの?

今この瞬間も君は心のどこかで身構えている。猫やカラスに不意に襲われる可能性だってあるんだよね。

- うん、それはそうかもしれない。鳶に蛇にイタチ。敵はいっぱいいるよ。意識していないけれどいつも無意識に警戒はしている。君にだってね。

そう、僕が仲良く話をしているふりをして、実は君を捕まえようと狙っているかもしれない。僕が君に襲われる心配はないけれど、君はそういう警戒もしなくちゃいけない。

- 襲われそうに感じたら、瞬時にばっと飛び立つんだ。

そう、そういう緊張感を君の体は常にはらんでいる。だから君は今この瞬間も丹練をしていると僕は思うわけだ。

- なるほど、ようやく君のいう丹練の意味が、そして君がなぜ一生懸命に丹練をしているかが分かってきたよ。

僕も君の体がなぜそんなに美しいか、その理由がちょっとわかった気がするよ。

- それにしても、、、

それにしても?

- 人間って面倒くさいね。自分たちで安全な暮らしをつくっておいてさ、安全すぎて気が緩んで体が弱って、それじゃあ困るから丹練して。なんだかおかしいや。

確かにそうかもしれないね。でもその代わりに、いつ死ぬかわからないって心配からは逃れられているけれどね。

- でもその割には、人間ってすぐストレスっていうね。意味わかんないや。

ふふふ。それは確かにそうだ。これは一本取られたなあ。

- じゃあ、そろそろ行くよ。

ありがとう、楽しかった。安全な旅を。

- ありがとう。頑張って強くなってね。


ー ー ー ー ー


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なんてな。






弘晃

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by wagoichi | 2016-12-11 16:05 | 丹練

私に間違わせて。


「ご飯の前にお菓子を食べたらいかん。ご飯を食べられなくなる。」

昔はこういう口うるさい大人が必ずいたなあ。


「お菓子ばっかり食べてたら体が弱くなるぞ。」

「●ーラは骨が溶けるぞ。」

こんなことも聞いたことあるよなあ。


むかしむかし、大人が責任をもって子供を守っていた時代の話。昭和の中頃までかな。

今の時代にこういうことを言う大人がどれだけいるのだろうか。




今の時代はこう。


「子供がご飯をあまり食べなくて・・・」

まあ、ご飯の前にお菓子やアイスを食べたらおなかも一杯になるわな。


「お菓子はダメよ、と言っても聞かなくて。」

親がバリボリ食べてるのに、子供にだけ食べるなと言ってもなあ。



今の時代は、もう口うるさい大人は居なくなったか、大人自体がだらしがないから子供に相手にされないか、単に無関心なのか、いずれにせよ子供がお菓子をだらしなく食べる風潮に歯止めがきかない。

そのせいで子供の体が弱くなったり、アレルギーで苦しんだり、集中力がなくて発達障害とか言われたり、生理がおかしくなったり、胃腸が弱かったりと、子供が当たり前のように病院通いをして薬を飲み続ける、そんな時代になってきたなあ。

でもそういう話はあまり表に出ないね。



お国もメディアもスポンサー様にいいように操られ、「食べろ」「食べろ」とは言うけれど「食べるな」とは滅多に言わないし、医師は薬を出すだけだし、栄養士も定型的な栄養指導するだけだし、結局「だらしなく食べる大人」が育てる今の子供たちは「だらしなく食べる子供」となってその弊害を一身に背負い、心身が病み、せっかくの未来を台無しにしつつあるように思うなあ。

全くもって酷い時代だね。



人間と言うのは、優しい生き物でね、人に「食べなさい」というのはやりやすいんだけど、「食べるな」というのは難しいんだよ。人に優しいんだね。

人から「食べなさい」と言われたら「うん」ってすぐに言えるけど、「食べるな」と言われたら「なんで?」って反発する。自分にも優しいんだね。

人間っていうのはそういうところがある。それは仕方ないところでもある。仕方ないんだけど、そういう「優しさ」に世の食べ物や薬やサプリなんかのスポンサー様たちがつけ込んで「あれ食べた方がいいよ」「これ食べた方がいいよ」ってメディア経由で洗脳をすすめていく。

だから皆、なんの疑問もなくだらしなくお菓子を食べ、肉を食い散らかす。これ今の日本の現状。海外も一緒かな。


「はら八分目」

今の時代に、誰が言う?

「お菓子は体を悪くするからあかん」

今の時代に、誰が聞く?




かくして一億総癌時代へ一歩一歩と歩んでいっているわけだ。手をつないで三途の川に向かって歩いて行っているんだ、わざわざ早足でね。全身に病気を抱えながらね。そして未来に病人となる若者を沢山育てながらね。でもみんな一緒だから、まあいいんだ。

これは未来形の話じゃなくて、現在進行形の話だよ。


わごいちはおなかを揉むからよくわかるんだよ。

大人は内臓のあちこちが傷み切ってやって来るし、若者は虚弱な体でやって来るし、老人は太ってぜい肉も病気もぎりぎり一杯まで抱えてやって来る。こういう人達が年々増えていっている。年々程度が悪くなってきている。おなかを触っていると、現代人の体がどれだけ劣化してきているかよくわかるんだよ。

毎日毎日必至だよ。(おかげで腕は上がる一方だけどね。)


癌も難病もまだまだ増えるよ。病院もパンクして入院できなくなるし、お医者もぽくりぽくりと過労死しちゃうよ。そこに輪をかけて子供の病気が社会問題化するだろうね。今はまだ表に出てないことが多いけどね。でもね、子供は未来そのものだよ。

今を生きる大人はそれでいいのかね。





ああ、間違いだったらいいのになあ。


これまで「三宅先生は10年先を見て進んでいる」と言われてきたけれども、今日書いた話に限っては、「三宅先生もとうとう間違った」と言われたい。


どうか私が間違っていたと言わせてほしい。










弘晃

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by wagoichi | 2016-12-10 19:20 | 若者

自分が何をしたいのか


少しずつわかりかけている。


人生で一番難しいのは、自分が何をしたいのかを見つけることかもしれない、そんな風に思う。

若い時なら、ある程度しっかり考えた末の「自分が何をしたいのか」であれば、あとは勢いで突き進むことができる。例え間違ってもまた軌道修正ができるからだ。

しかし年をとってくると少しそういうのが難しくなってくる。軌道修正の機会がもうあまりない。段々と背水の陣の覚悟が必要になってくる。ある程度の経験を積みエネルギーもある40代という人生の黄金期に何を為しておくか、それは人生の成果を決定づける要因になりはしまいか。



「何を言っているんだ」と、人は言うかもしれない。あんたは充分に成功者だし、このまま行けばいいじゃないかと、そんな風に言われそうな気もする。

確かにこれまでの自分の人生は上出来かもしれない。28歳で脱サラし裸一貫で整体院を始め、並び立つ者なきおなか揉みの技術を確立し、今や全国各地からわごいちを頼ってきてくれる。手におえないような病気はもう多くないし、うちのお客たちは有り難いくらいに品がよいし、家族は円満だし、明日のご飯を心配することもないし、体は元気だし、髪の毛もまだ抜けてない。

充分じゃないかと。


このままわごいちを守っていけばいい。わごいちはこのまま幸せを守っていけばいい。下手に規模の拡大に走らず、営利に走らず、誠実により一層のよい仕事を求め続けていけば、それだけで充分幸せじゃないかと、そういう考えもゼロではない。またお客サイドも、そういう気持ちの方は沢山おいでかと推察する。




でもあかんねん、そういう考えじゃ。



今わごいちが守っているのは、わごいちに通う人だけ。わごいちの屋根の下に入った人だけ。そして自分達だけ。わごいちの傘の中に入った人間だけが、癌にならずにすんでいるだけ。大病から免れているだけ。自分達だけが自分の健康に万全の自信を持って人生を楽しんでいる。でも他の人のことは知らない。

そういう話じゃないのか?



若い世代はどうする?

すでにもう若者のおなかは弱り始めている。中年も老年も弱ってきているが、若者の事態はより深刻。アイスと唐揚げで育ったようなやつが沢山いる。20代で生理がないやらおかしいやら、食べられないやら太れないやら働けないやら、こんな20代が溢れる時代が過去にあっただろうか。

彼ら彼女らのおなかはすでにもう弱っているんだ。10年前の20代とは全然違うんだよ。

彼らはこれから数十年生きていかなくてはならないが、20代でこんな体で、この先どんどん老化が進む中で、どうやって健全に生きていく?




わごいちは大事だ。大事で貴重な場であることには変わりはない。

でもわごいちだけではダメなんだと、それはもうこの数年で顕在化した。ごく一部の大人だけを守るわごいちは、自分たちにとっては大事だけれども世に必要とされているとは言えない。世の人を、未来ある若者を見て見ぬふりをして自分の幸せを守って、それは本当に幸せなのか。それは本当の意味で健全なのか。





これからは我が身を半分に割ってみようと思う。

わごいちは、引き続き我が半身と弟子たちの総力を挙げてこのまま力をつけていく。ものすごい整体院になるだろう。まだまだ伸びしろは沢山ある。


そして残る半身の在り方を考えよう。

これまでの千照館や講演会のように、わごいちの合間を縫うような仕事の在り方ではなく、私の半身はわごいちから完全に出よう。そして半身の全て(ちょっと変か?)を懸けて仕事をさせよう。全身全霊の半身で、何を為すべきか。為したいか。為すか。一から一人から。

何からはじめるか、まず考えよう。


向かう先は、社会であり未来である。これだけは決まっている。それ以外はまだ定まってはいない。








弘晃

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by wagoichi | 2016-12-09 19:23 | 人生

試練は買ってでもせよ


昨日から徐々に持ち直した体調も今日になって完全復活。

せっかくの貴重な2連休をほぼ寝て過ごす羽目になったのは少し惜しいが、仕事に影響が出なくてよかったよかった。薬で無理矢理抑えずに、自然治癒力で完治できて本当に良かった。

お陰で今朝からバリバリと整体している。



しかしあれは何だったのだろうか。

おそらく急性胃潰瘍の類だとは思うが、なにせ自分の体だけは何もわからないこのもどかしさ。もし胃潰瘍だったなら、よくも二日できれいさっぱり治ってしまったものだと思う。


食べ物は一切受け付けなかった。水を少し飲んだだけで痛んでうめいた。うんちもおしっこもろくにでない。胃腸が完全にマヒした状態でうんうんと苦しんだ。

右を向いて寝ても痛い。左を向いても痛い。上を向いても下を向いても斜めを向いても痛い。寝ているのも辛い。

でもそこで「どう向きに寝ても痛い!」と悲観するか、「右を上に寝た方が、左を上に寝るよりちょっとましかも!」と可能性を見出すかは大違いだと思う。

痛くても「さっきより微かに痛みがましになったかも」と思えるか。痛みが増えていっていても「いつかは必ず痛みのピークを越える」と思えるかどうかで全然違う。

もちろん可能な限り冷静なる状況判断があってこそだが、自分の気持ちを前に向かせる精神力を持っているかどうかで、病気の治りは全く変わってくる。



やはりあの1年半前の経験は大きかった。

距骨骨折を、手術もギブスもしないで治したあの経験は大きいと感じる。骨壊死というリスクの中で、自分の為すべきことを信じて養生し続けたことが、自分に何らかの精神力を付与したように思う。

やはり人間は試練の中でこそ成長する。試練を見据えたまま一歩一歩前進する中で精神力が作られる。そしてそれは確固たる自信となる。



日々の丹練も大きいな。

少々のことではゆらがない。俺は負けない。こんなことでは負けない、乗り越えてもっと強くなってやる。そういう自信がついてくる。雨が降ろうが槍が降ろうが続ける丹練が生み出す精神力は伊達ではない。


やはり人間には試練が必要なのだ。

ヌクヌクとラクラクと暮らしながら「強くなりたい」なんて虫が良すぎる。与えられた試練は喜んで引き受ける。与えられないなら、自分で自分に試練を与える。いざと言う時のために鍛えておく。

試練とは突然やってくるものだよ。その時にこれまで培った精神力が問われるんだね。

試練に背を向けてはいけない。あいつは野犬と同じで、逃げると喜んで追いかけてくる。人間そう簡単には死なない。だから前を向いてどっしりと試練を受けとめていけばいいのであって、そうすれば人間必ず強くなるものだね。










弘晃

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※やはり二日間寝続けると筋肉カチカチである


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by wagoichi | 2016-12-08 16:14 | 丹練



「原点が導くこれから」という感じでしばらく探り書きです。

by 三宅弘晃
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