照千一隅への道のり

カテゴリ:人生( 19 )

その12.エレキにビビッとやられて


小学生の時、近所で柴犬が生まれたというのでもらってきた。ランと名付けた。

ランはその後19年間生きてくれた。病気もほとんどしたことがない。まったく健康で賢い犬だった。

ランの健康の秘密は二つあり、一つは粗食、そしてもう一つは毎日のジョギングだった。散歩ではない、名前の通りランだった。この連載の初期の頃に書いたが、父や私と一緒に野山を毎日3~10キロ程走った。とにかくよく走った。



思えば私は昔から生き物の体に興味があったようだ。子供の時にランをよく観察して、色々なヒントを自分の中に蓄えてきたことを、今更になって気付くことがある。まさか当時は整体師になるなど夢にも思ってなかったが。

例えばランの走り姿はとても美しかった。よちよち歩きの子犬でもらわれてきて、誰も走り方など教えていなかったのに、とても理にかなった美しい走りだった。ランは昼間も庭で放し飼いだったが、野生動物や野生に近い状態で飼われている動物はすべからく走り姿が美しい。

私は当時陸上部に所属していたので、マラソン中継などはよく見た。当時は瀬古俊彦さんや宗兄弟がトップランナーだったが、宗兄弟のあの首を傾げた走りは子供心にも不思議だった。どうして首を傾けて走るんだろう。シマウマやライオンでそんな走り方をするのがいるだろうか。。。

野生動物の動きは、皆が完璧に近い合理性と美しさを感じさせるのはなぜだろうか。




そろそろ丹足の話をしよう。


前回に「整体はしんどいものか」という疑問を抱いたことは書いた。奉仕的労働ではなく、相手を癒しながら自分自身も強く美しくなっていくような整体を模索したいと思ったことも書いた。私は日々の整体活動の中で、あるいはそれと並行して、「強く美しい整体」の在り方を模索し続けてきたように思う。

その際に重要な役割を果たしたのが、姿勢と呼吸の研究である。研究の為に、バリ舞踊、フラメンコ、フラダンス、ジャスダンス、日本舞踊、ベリーダンス、ヒップホップ、社交ダンス、エアロビクス、よさこい、古武術、能、などなどを仕事の合間にできるだけ見に行ったことは以前に書いた。

面白い所では「湯もみ」などもわたしの研究対象になった。今YOUTUBEで見ることができる湯もみは現代人の体による湯もみだが、私の頭の中では大正以前の日本人の体で行ったであろう湯もみが想像再生される。そういう昔の運動も研究対象になった。

しかし当時はあくまでも「足圧」とは切り離したところで、姿勢や運動などの研究していたように思う。




「エレキ」というべきものがあるのかもしれない。

例えばエビがどんどん肉をつけ成長していよいよ殻が窮屈に感じた時、全身にビビッとエレキが走る。決して計画的に手順を追って脱皮していくのではなく、エレキが走ってビビッと、これはたまらんと、雷が落ちて反射的に家を飛び出すのと同じ感覚で、エビは反射的に脱皮に動きだす。

いや、本当の所はエビに聞かないとわからない。わからないが、私はそういうものだろうと想像するだけの話。

何の話かと言えば、生命活動の革新にはかならず「エレキ」が必要なのではないだろうか、という話である。古来より宗教家が激しい修行の中で「悟りを開いた!」というのは、まさにあれもエレキの一種だとみていいと思う。




足圧が丹足に生まれ変わるについて、奇跡的に幸運で、決定的に重要な要素があったように思う。

当時の私は猛烈に忙しかった。朝の9時から夜中の11時までぶっ通しで施術していた。お盆と正月以外に休みは無かった。それでも仕事をこなしきれず、新規予約は最長7か月待ちまでいった。そんな生活を何年も続けていた。

施術中に意識がぶっ飛んだこともあった。皆さんも一度試しにやってみたらいいと思うが、14時間休憩なしで人の体を揉み続けてみたらいい。それを何カ月も毎日続けてみたら、人間どうなるか。。。。


とある日、慢性的に体が重く、何ヶ月か続いていた微熱も、この日はあからさまに発熱していた。体の節々も痛い。腰は硬く重く痛覚がない。意識は朝から朦朧としている。でも目の前には助けを求める、大きくて硬い体の人が寝ていた。

もうその時はさすがに「ごめんなさい。無理です。」と言おうかと思った。そういってその場に倒れられたらどれだけ楽だろうと思った。でもこの施術を後回しにしては、その人は次にいつ予約を取れるかわからない。予約表には数か月先まで一寸の隙間もなかった。

「もうどうしようもない。どうしようもないまま、先を考えずにやるしかない。」と踏み続けた。今日の施術を受けることを何カ月も楽しみにやって来た人だ。こんなに体が硬くなってはさぞつらかったろう。さぞ待ち焦がれたことだろう。(でも実は俺の方が辛いにちがいないんだけど。。。。)

やらなくちゃいけない。逃げちゃいけない。できない言い訳をしてごまかしちゃいけない。プロのプライドにかけて。でも体がいうことをきかない。意識ももう。。。



その時エレキが落ちてきた。


エレキが私の体を貫いて、突如として私は「踏むこと」について開眼した。

「ああ、踏むとはこういうことだったのだ。」



大気が真っ二つに割れるような新しい感覚を得て、足圧ではなく、つまり「足で圧をかける」のではなく、「本当の踏む」というものに私は目覚めた。

そして「本当の踏む」という原点に立ち返ったことで、それまで培ってきた丹田の存在や軸の運動などの技法が加味され肉となり、本当の踏むの延長に丹田と軸の活用を踏まえた様々な型のバリエーションがでてきて、最終的に数年がかりで「丹足法」を創り上げた。





思うに人は小賢くなりすぎているのだろう。

己の命を賭けて獲物を追う時逃げる時、体は全ての能力を開放し、自ら然るべき運動を行う。誰に教えられなくとも。何も難しいことを考えなくとも、チーターもインパラも己がもっとも強く美しく躍動する技法を体得する。

まず命を賭けることだ。理論は後からつけるものだ。

生きるか死ぬかの瀬戸際に立った時、そういう状況が続いた時、そしてそこに終わりが見えない時、エレキが落ちることがある。必ずしもエレキが落ちるとは限らない。エレキが落ちなければそのまま死ぬかもしれない。でも落ちれば革新が手に入る。


こうして足圧は丹足に生まれ変わった。




つづく。








三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-05-22 14:34 | 人生

その11.整体はしんどいものか


どういういきさつで「足圧」が「丹足」へと生まれ変わったのだろうと、今考えている。

私が桜井寛先生から習得したのは正真正銘の正統なる「足圧」だったのに、それがいつのまにか「丹足」に進化した。

断っておきたいのは、私は一度だって「足圧を改造したい」と思ったことはない。新日本延命医学療法の技術の粋がこめられた足圧法を私は大事にしてきたし、大事に思うからこそわごいちの施術でも一貫して足圧、今は丹足を活用し続けている。

大事に大事にする中で、いつの間にか、その大事なものが新たな価値を秘めたものに生まれ変わっていた、そういう感じがする。

考える中で「きっかけ」らしいものに思い至った。ここから芽生えたのかとおもうタイミングがあった。それはあまりにも意外なタイミングで自分で少し驚いた。それはまさに、足圧に出会ってすぐのタイミングだったのだ。




桜井先生の元で修行をしている時、毎回桜井先生は私の足を足圧された。「こうやるんだ」と実際に先生の手本を我が身に受けて、自分の体でその作用を理解するためだった。

なにせ二人きりの修行である。受けて感じて、踏んで指摘されての繰り返しである。何度も何度も桜井先生の足圧を受けた。

当時の私は今より数キロも太っていて、むくみもきつく、筋肉も硬かった。だからさしもの桜井先生もずいぶん苦戦されて、息を切らしながら「かたいな。かたいな。」と言いながらほぐしてくださったものだ。

それでも足圧でほぐれた感覚を私に感じさせようと一生懸命ほぐされた。あるいは治療家の本能として、目の前の硬い足に必死になったのかもしれない。とにかく本気で必死でほぐされた。

「申し訳ない」「ありがたい」「頑張って覚えよう」と私が思ったのは言うまでもない。しかし今でもこれははっきりと思い出せるのだが、一抹の疑問が芽生えたのである。

「ほぐすって、そんなにしんどい思いをしなくちゃあかんのやろか?」

ほぐしてもらいながらそんなことを思うのは誠に不遜な気がするが、その当時の私の疑問はどちらかというと、素朴な幼児がもつような無垢な疑問であったように思い出される。


人をほぐすという行為は、しんどいことなのだろうか。




確かにほぐし難い体というものはある。ほぐし難い体をほぐすは、そうでない体よりも難しいのは事実である。しかしだからと言って、ほぐし難いからと言って、しんどい思いをしてほぐさねばならないものであろうか。

整体を奉仕と捉えるか、という見方もできると思う。

整体が奉仕であるならば、自分のことを多少なりとも犠牲にして相手に尽くすことも必要かもしれない。相手が楽になれば自分がしんどくなったり、体を痛めたりしても仕方がない、そういう仕事である、という考え方もあるかもしれない。


しかし私はそういう考え方には与しない。


汗をかき、息を切らしてほぐすことで、少なくとも相手には「これだけ一生懸命尽くしましたよ」というPRにはなる。それで満足する人もいるかもしれない。しかしその汗と、整体の意義なるものにどの程度関係があるのだろう。

私個人的には、「硬いですねえ。鉄板が入っているみたいですよ。」と言いながらグイグイ押す整体師は好みではない。「人をほぐしてたら自分の体がぼろぼろですわ」という整体師も同様である。そこに整体の美しさを感じることが、私にはどうしてもできない。

整体は奉仕ではない。奉仕にしてはいけない、私は強く思う。しかし奉仕ではないけれども、しっかりとほぐしてあげることは大事である。奉仕でないからと言って手を抜くのは違う。しっかりとほぐす。しかししんどい思いをしてほぐすのは違う。

そこを考えることに意味はあると思う。

私は思う。

整体の美しさとは・・・美しくないものは力がない。美しいものこそ力がある。力は美しい。整体を続ける中で、いつしかそんなことを考えるようになった。



私は整体の世界に入りたての修行時代すぐに「整体ってしんどいこと?」という無垢な疑問をもったようだ。この疑問はその後ずっと私の整体の醸成に重要な役割を果たしているように思う。もちろん丹足の発生にも間違いなく大きな意味を持っている。

とにかく私は整体を奉仕とは考えなかった。一人を救うために、一人が傷んでいくのはおかしいと思う。やればやるほどくたびれていくのではなく、やればやるほど自分も強く美しくなっていくような整体を作っていきたいと段々思うようになった。

その方策をなんとか見つけ出したいなと、ほぼ深層心理の世界で、つまり頭ではなくハラの中で、おそらくごくごく初期の段階で私は考え始めたのだと思う。それが足圧が丹足に生まれ変わるトリガーになったのではないか、そんな風に思いだされる。





引き続き、次回にもう少し考えてみる。



















三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-05-20 21:26 | 人生

豆の教え


空豆を見ると、祖母きみを思い出す。

人生に「生き甲斐」を問い生きることを教えてくれた祖母きみ。毎年春に空豆を見るたびに、自分の生き方を問い直す。あれから私の人生は着実に変わってきている。


「先生、このまま行かれたら、大変なことになりますよ。覚悟はおありですか。」


と最近、問うてくれた人がいる。今こうして大阪の片隅で穏やかに整体だけをしている生活が、大きな渦の中に放り込まれるような未来が待っているだろう、とその人は言う。

「ハラの大切さを世界中の人がもっと知るようになるのなら、望むところですよ。」

と私は応えた。





今、私はとても穏やかで幸せな毎日を過ごしている。

多くの人に愛され、信頼されて暮らしている。これほど満たされた人生はなかなかないだろうと思う。



しかし常に心のどこかに気がかりと、不完全燃焼感が拭えずに存在する。

自分はやるべきことをやり尽くしていると言えるだろうか。このままこの社会が進むのを傍観していていいのだろうか。このまま私が死んだらハラ文化は遺るだろうか。



やるべきことがあるならば、やらねばならない。それは人の為だけではなく、自分自身の生き甲斐の為にも。

例え、穏やかな日々が失われていくとしても。。。




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昨夜祖母きみの娘、つまり私の母が家に来て、えんど豆の皮を剥いていた。

私と妻が仕事で家を空ける時、母は娘の面倒を見にやってきてくれる。昨夜は母と娘と私の3人で過ごした。


「最近忙しいみたいやけど、何かしているの?」


と母が訊くので、「あちこちの家庭で丹足で踏み合えるような社会を目指して、仲間と一緒に協会を作っていくねん」と話したら「それはとてもいいなあ。」と言ってくれた。母は長年介護ヘルパーの仕事をしている。




わが母は少し面白い人で、何でもとりあえずかじってみる癖がある。ミカンを食べる時も皮をかじって少し食べる。「農薬ついてるで。」と言っても「ちょっとくらい大丈夫よ。」と取り合わない。

以前、天王寺動物園に行ったときに、コアラ館の前にユーカリの木が植えてあって、「ユーカリの葉には毒があります。」と書いてあるのに、わざわざかじってみる母にはさすがに言葉が出なかった。


昨夜は頂き物のえんど豆を持って帰ったところ、早速剥きだし一つ生でかじる母。「苦い~」と言った後、私に向かって「食べてみ」。でた!得意のまきぞえパターン。断るととてもしつこいので一粒食べる。「苦い~」。で娘に「食べてみ」。親から子、子から孫への儀式の伝承!?

娘も果敢に挑戦して「苦い~」。はっはっはと笑い合う、アホなババ、父、娘。




「こういう時間がいいんやなあ。」


母がポロっと言った。

はっと思った。自分の心の奥底の躊躇が露わになり、そして解消していくのを感じた。



私は今、確かに穏やかで幸せに暮らしている。しかし同時に、日常を疎かに過ごしている自覚もある。この平和が続くという前提に甘えている自分を感じている。もったいないことをしているという自覚がある。その上でこの生活に執着している自分が居る。

これでは駄目なんだと、言われたような気がした。



「生き甲斐を大事に生きろ」と言い遺した祖母きみ。その狭間の何気ない日常を慈しみなさいと伝えてくれる母美智子。大事に生きるからこそ、日常がより愛おしくなる。日常を愛する人間だからこそ、大事が為せる。ひと時ひと時に感謝して大事に生きなさい、と言われた気がした。

祖母と母に心の中で頭を下げた。



もう迷うことなく、前に進むことが出来る。

空豆とえんど豆が見守ってくれることだろうと思う。











三宅弘晃

今日の丹練
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by wagoichi | 2017-05-12 16:08 | 人生

その10.燕雀安くんぞ


開業後まもなく、私は「ゴスペル教室」と「インド舞踊教室」を始めた。

「なぜ整体院がこんな文化教室をはじめるんだ。」と言われたこともあったが、私は何とも思わなかった。わからん奴にはわからない。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」である。



桜井先生から学んだ丹力には「内臓マニュピレーション」「足圧」という実技に加えて、「ハート呼吸法」「バーズ姿勢法」という理論があった。丹力への理解を深めたいと考えた私は、ゴスペルを通して呼吸法を、インド舞踊を通して姿勢法を研究しようと考えた。学術書やセミナーを受講するだけが研究ではないと私は思っている。

実際にゴスペルは非常に呼吸法の研究に役立ってくれた。約10年、真剣に発声練習をしながら研究に打ち込む中で、どうやったらより楽に大きく息を出し入れできるか、肋骨運動を向上させることが出来るか、そして内臓を引き上げることができるか、ということをメソッドとして確立することが出来た。

思わぬ副産物として声はとても響きある良い声になって、当時普通に話していると「歌手ですか?」とよく聞かれるようになった。しかし残念ながら私は音痴だった。



インド舞踊の方は、雇ったインストラクターの先生とケンカして教室は無くなったが、代わりにできるだけ色々なジャンルのダンスや伝統芸能を見に行って姿勢と動きの研究をした。

バリ舞踊、フラメンコ、フラダンス、ジャスダンス、日本舞踊、ベリーダンス、ヒップホップ、社交ダンス、エアロビクス、よさこい、古武術、能、などなど。。。機会があればできるだけ見に行った。時に体験もしたけれども、舞踊の場合は主に観察研究をした。

舞踊を見る時、徐々にハラと軸をみるようになった。どんなジャンルであっても、熟練者は必ずハラから動きが発し、ハラに動きが終息することが分かってきた。5体の動きの拠り所となるのが軸であり、ハラから生まれたエネルギーは軸を経て5体に放出され、また軸を経てハラに収まる。そんなことが段々と見えるようになってきた。



そう、おわかりだろうか。この研究が今の丹足に繋がってきている。

といっても書くのは簡単だが、やるのは難しい。それ以前にこのメカニズムを感じ取るのがまず難しい。私が見てきたダンサーたちもほとんどがそこで行き詰っていて、トップダンサーとの差を埋められていなかった。なぜ埋められないのか、それさえもが見えていないように見えた。ハラと軸が肝心なのだ。でもそれが感じられないのだ。



このように、歌と踊りの世界から私は多くのことを学んだ。

なぜか私には核心を感じ取る感覚があったようで、これらは丹力の教えにもないものだった。じーっとダンサーの動きを観察する中で、黒人ゴスペルシンガーの歌う姿を観察する中で、人間の体のメカニズムの全貌と核心が見えるようになっていった。我ながら面白い能力だと思う。


しかしこの能力が、ひとつの悩みを生み出した。

それは当時「完成品」だと思っていた丹力の呼吸法や姿勢法の理論に、まだまだ研究と改善の余地があることを否定できなくなっていったのだ。しかし整体師になってわずか3,4年の人間が、30年以上やってきた先生に異を唱えていいものかどうか、すごく悩んだ時期があった。

先生と会食をしているときに、2度ほど意見具申をしたことがあったのだが、先生は否定はされなかったがそのまま進展もなかった。私は弟子ではない。しかし先生に恩義がある。発見の共有というお返しをしたい。でもそれはおこがましい。しかしどう考えても先生の先の世界が見えてきたように思えてならない。

それを伝える関係にはなかった。桜井先生は永遠の恩師であってそれは揺るがせてはならなかった。



いまから思えば、私は無邪気だった。変わるということは、成長するということは無条件で喜ばしいものだと思っていた。

これは素晴らしい、ものにしたい、そして乗り越えたい、そういう一心で修業をしている時は、春を謳歌する幸せに包まれている。乗り越えた、と思う瞬間は夏の盛りのような火照りを覚える。しかしその後は秋の別れと冬の孤独が待っているということを知らなかった。



迷いに迷って私は決意をした。

これからもこういうことはあるだろうが、傲慢と言われようが乗り越えて進んでいこうと。孤独にひるまず前へ前へと進もうと。それが私の人生だと。











つづく





三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-05-09 20:40 | 人生

その8.勝負どころ


修業を始めて9か月。異例の早さで開業が決まった。私も人の子、やはり開業はドキドキした。

とは言え、修行1年をめどに開業しようという考えは元からあり、人の3分の1の短さで開業する為には人の3倍の修業が必要という考えで準備はしていた。


修行の一環で続けていた出張整体は思いのほか反応が良かった。ほとんど確実にリピートしてもらえたし、毎週通った重症の寝たきりのおばあちゃんは小走りできるくらいまで元気になった。少しずつ経験と自信をつけていった。

最後の腕試しと、とある出張整体グループの採用試験をうけたら研修不要で即現場に出された。かつてない抜擢だったらしい。さらにいきなり支部長に任命された時はびっくりした。正直周りの評価にたじろぐことの方が多かった。




そうこうするうちに開業が決まり、「心斎橋たんりき」を開業したのは2002年の1月のこと。

桜井先生でさえ苦戦していた後を継いだので前途は厳しかったが燃えていた。人生で初めてもった自分の城である。人生で初めて人も雇った。会社員では決して経験できない人生に興奮していた。

3か月後には予約がパンクするほどの人気整体院になった。友人たちにも本当に助けられた。そしてやはりハラを揉むというのが当たったのだ。当時はカイロプラクティックが流行りで、ハラを揉むというと皆が変な顔をしたものだが、結果的には私の直感が当たったのだ。多くの人がハラに悩みを抱えてやってきた。深夜までびっしり働いた。



そんな折、縁談が舞い降りてきた。

「新日本延命医学療法」という凄い民間療法の先生が居るが、君の所にその先生を迎えて技術を伝承しないかと、そんな話を頂いた。

「新日本延命医学療法」(以後略して延命学)とは故宮原一男先生が拓いた民間療法で、その技術の凄さまじさは他に類をみないものだったと言う。ハラや脇や太ももを中心に全身を揉み解していく。松下幸之助もお客だったとか、温泉治療旅行についてきてもらった人が一晩で20万(戦後間もない時である)払ったとか、そういう話も残る。そんな延命学の噂をかねてから聞いていた。

どんな施術をするんだろうと興味を持った私に、往時の宮原先生の施術動画を見せてくれる人がいた。正直に告白すると全然わからなかった。凄そうな感じはひしひしと伝わるのだが、何をしているのかが全然分からない。当時のひよこの私には次元が違いすぎたのだと思う。それでも強烈な印象だけが残った。

桜井先生からも延命学の話は聞いていた。丹力の手技と足圧は延命学に由来するのだから当然である。「桜井先生は宮原先生の技術をどうみられるのですか」と訊いてみたところ、「何人か人を殺してるんちゃうか。」と一言、独特の言い回しをされた。

まさか本当に人を殺したわけではないだろうが、患者さんの命を懸けるような踏み込んだ施術を重ねてこないとあの域には達せない、ということを桜井先生は言われたんだと私は理解した。桜井先生も無条件で認めていた先生だった。



さてそんな延命学が私の所にやってきた。しかも技術を教えてくれるという。まさか!という感じ。自分の運の周りに自分で驚くしかない展開だった。

かつて宮原先生は日本各地で技術指導をされていたので、現在でも延命学を名乗る先生はちらほらといるのだが、正当な技術を伝えたのはただ一人実の息子だという。他の延命学は真似事であるという。その正統後継者である息子さんが、人を介して私と組まないかと話を持ち掛けてきた。

宮原先生(息子さん)は正統後継者だけあって「技術は凄い」が「人間がよろしくない」と評判は芳しくなかった。そこでひよこ整体師で「技術はまだまだ」だが「人が集まってくる」私と宮原先生が組めばうまくいくのではないかと考えた人がいたのだ。

なかなかよく考えたものだ。

私もお客さんも多少は混乱するだろうが、院の技術が向上するのは間違いない。当時の私には手に負えない人もまだまだ居たから、そういう人にとって宮原先生は救いになるだろう。宮原先生も私がサポートすれば心置きなく施術活動ができるだろう。何より当時の私にとって「延命学の技術」は垂涎の的であった。

我々のような職人にとって技術は一番の宝である。本物の技術を学び取る、これに勝る魅力はない。どんな犠牲を払ってでも、どれだけ金を積んででも、本物の技術を学び取らねば将来は開けない。開業3か月目に、私の将来を決定する大きな勝負どころがやってきた。



紹介者が宮原先生を私の所に連れてきた。

大きな手だった。握手をすると肉厚ですこしゴツゴツしていた。挨拶もそこそこに宮原先生は私の体を整えだした。お互い施術家だから言葉はいらない。技で語ろうということで、私もそれは有り難く臨むところだった。

宮原先生から見ると当時の私はひよっこで相手にならない。まず自分の力量を見せつけようとされているのもよくわかった。それでも私は貴重な機会に感動していた。自分は本当に運があると神様に感謝したい気持ちだった。

しかし一通り整えた後「こういう風にやるんやで」と言われた時に、意に反して熱が冷めている自分に気が付いてびっくりしたのである。



以前ビデオで見た故宮原一男先生とは別物だった。正統な後継者ではあったろうが、息子さんをもってしても全てを伝えられていないか、学び取られていないのではないか、ということを何故か私は確信をもって感じてしまった。

直感であった。直感以外の何物でもなかったが、宮原一男先生はここにはいないと感じた。そのレベルならおそらく自分は自力で乗り越えられると思った。いや乗り越えなくてはならない。そう感じた自分が不思議だった。

くどいようだが、息子さんも相当な腕である。少なくとも、父宮原先生を除いてこの息子さんに太刀打ちできる延命学療法家は当時も今もいないはずである。

それでも私はここじゃない、と思った。



せっかく人生をかけて整体の道に入ったのだ。迷うような決断はしてはいけない。勝てると思った自分の直感を頼りに乗り越えよう。そしてこれからは宮原一男先生に、本物の延命学に本気で挑もう。そう決意した。不思議なもので息子さんの施術を受けたことで、ビデオ中の宮原一男先生の輪郭が見え始めた気がした。

この縁談は断った。

院の家主であった紹介者が破談を了解してくれず、最終的に「それなら私がでます。」といってお客さんを連れて出ていくことになって色々と大変だったが、あの時は人生の大きな岐路だったと思う。




人生には逃してはならない勝負どころがある。

今こうして振り返る中で、私はあの時に勝負どころを間違わなかったんだと再確認した。



私が挑もうと決めた相手は「延命学創始者 宮原一男先生」その人だった。







つづく







三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-27 04:29 | 人生

その7.はじめの一歩


桜井寛先生の指導は色々な意味でユニークだった。


こういう世界では技術を隠そうとするのが常であるが、桜井先生は隠そうという感性がおありでない。

初めて先生の「丹力セミナー」に参加した時、先生の教えっぷりに感服した。初対面であっても全て見せるのである。全て教えようとするのである。簡単にマスターできるような代物では決してないのに、簡単にできそうに見せてしまう。

案の定、その場に居たセミナー参加2回目の鍼灸師の先生が、「前回教えをうけてから、うちの女性スタッフの内臓を揉みましたら下血したのですが、何がまずかったのでしょうか?」なんて質問をしていた。

「たった1回習っただけでお腹を揉めると考えるあんたの感覚がまずい。」と私なんかは言ってやりたかったが、桜井先生は、そんな質問にも丁寧にアドバイスされる。だからか先生はよく勘違いされる。

丹力が簡単でないことは、当のご本人が一番知っている。でもそんな先生の真意を見抜く人はいなかった。




一方で桜井先生の接客はちょっと不器用だった。

「腰痛で・・・」という人に、一通りの治療をした後の帰り際にアドバイスされる。「これから毎日四つん這いで暮しなさい」。

「は????」っという顔になる。部屋の中でずっと四つん這い。犬のように四つん這い。隣の部屋に行くのも四つん這い。トイレに行くのも四つん這いですか???と。

怪訝な顔をして帰る患者さんを私は見送った。理由はあるのです。すごく示唆に富んだアドバイスなのです。でもそれを噛み砕いて説明してあげないと、患者さんは理解できないのです。とはさすがに憚られて先生に言えなかった。先生の真意を理解するのは甚だ難しい。

だからだろうか、技術は凄いのに先生の治療室は暇だった。



そんな先生のもとで、4ヶ月間みっちりと指導を受けた。毎日4~5時間ほど受けた。マンツーマンだったし実質的には徒弟のような指導であったが、私はちゃんと教授料をお支払いして技術を学ばせてもらった。ちなみに後にも先にも私が整体の指導を受けたのは、この時の桜井寛先生ただ一人である。(整体学校は何も学ばず中退している。)

先にも書いたが出し惜しみの無い先生であった。延々と続く反復練習には指もバンバンに腫れ上がったが(それでも練習は続いたが)、全てを見せて下さり、全てを伝えようとして下さった。ただ数ヶ月でモノになるようなものでは到底なく、先生の元を去ってからも数年、先生の教えを追究することになった。


桜井先生もそんな私を認めて下さったのか、「僕が死んだ時の為にこれを渡しておく」と弟子でもない私に丹力資料を色々下さった。桜井先生の手ほどきを受けた人間は沢山いるはずなのだが、どうも私以上にみっちりと腰を据えて学んだ人間はいないようだ。なぜだろうか。

勿体つけたり自分を大きく見せようとしない先生のお人柄が、人をして先生の力量を軽んじさせるのかもしれない。もしそうならば、なんと勿体ないことだろうと思う。当時も今も、桜井先生ほどの技術を持った治療師は滅多にいないのに、「見せ方」が上手い先生の所に人は惹きつけられてしまう。



桜井寛先生の所での修行が終わってまもなく、先生が東京に移動されることになり、「あとをよろしく」と託された。


まさかの開業である。







つづく









三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-22 14:03 | 人生

その5.3Kの目

1年間の浪人生活を経て大学に入学した時、世はバブル経済のピークを迎えつつあった。

私が垣間見たバブルとは、借金して3000万円で買った家が3年後に5000万円で売れるという時代。金利も含めて4000万返済しても、3年タダで済んでしかも1000万円手に入るという時代。不思議な時代だった。

そんなバブルの時代によく耳にしたのが「3K」という言葉。「きたない」「きつい」「きけん」の頭を取って3K。バブルでブイブイいわしていたホワイトカラーの人間が、ブルーカラーの人間を見下す時にもよく使われたように記憶している。



当時の私は必死だった。自分はそれまで親と学校の枠内で暮し、個として社会と一切向き合って来なかった。自分で何かを考え、自分の責任で行動するような人生を送ってこなかった。あまりに社会を知らなさすぎる。

それに気づいてからは、このままでは社会でちゃんと生きていけなくなる、ただ単に社会的保護者が学校から会社に変わるだけで、自分自身の人生を送ることはできない、と焦りさえ感じた。

大学時代にはバイトを色々やった。バブルらしい華やかなバイトではなく、いわゆる3Kという仕事ばかりを選んでやった。3K仕事を通してバブル社会の奥底を見ようとしたんだと思う。



面白かったのは日雇いの土方仕事だった。朝7時くらいに広場に行く。事前の面接も申し込みも何もない。ただそこに行く。そこには200人くらいの労働者たちが居た。若者も年寄りも、日本人も外国人も、多様な人達が集まっていた。

しばらくするとワゴン車が10数台やってきて、「ここは8人」「こっちは6人」とか言うと、皆が適当に車に分散して乗り込む。人数が揃うと出発。時には人があぶれて、つかみ合いの喧嘩になった。

無事に車に乗り込むと、運転手が車内で行き先と仕事内容を伝える。目的地に着いたら現場監督が居て、その指示に従って黙々と一日肉体労働をする。時間が来たら再び同じ車に乗って広場に帰り、プレハブ小屋の前に並んで日当9千円をもらって家路に着く。



私はこの仕事が面白かった。誰に雇われるのかもわからない。どこに連れていかれるのかもわからない。互いのことは誰も知らない。仕事で怪我しても多分保障などない。極端に言えばそのままどこかに拉致されても誰にも知らされない。

でも感動があるのだ。一生懸命働いて、その報酬を手渡しで受け取るときの嬉しさ。「ああ、一日頑張って働いたなぁ。」という手応え。労働の原点を感じたのかもしれない。シンプルだからこそ伝わる感動と言うものがそこにあった。

帰りの電車で隣に座ったスーツ姿のサラリーマンが、汗とホコリにまみれた私の服に触れるのを露骨に嫌がった。心の中で思った。「誰のおかげで綺麗な道路を走れるんじゃ。」




パチンコのバイトもお気に入りだった。

結構な肉体労働だし、仕事上がりにおしぼりで顔を拭くとまっ黄色になった。タバコのヤニがこびり付いていたのだ。紛れもない3K仕事だった。

人が面白かった。店長は元ヤクザの用心棒をしていた人で、カラオケで酔っぱらって包丁を振り回していた時は怖かった。副店長はもと暴走族の特攻隊長でいつも無表情で怖かった。が、ごくたまに笑う時はとても愛嬌があった。社員もマルチ商法にはまっている人、いつもあいさつ代わりに背中をどついてくる人など変な人が色々いた。

「なんで俺ばっかりどつくんですか?」と訊いたら、「お前は頑丈やから壊れへんやろ」と言ったが、本当はその社員が気に入っているあみさんと言う女性が、私に良く話しかけてくるのが気に食わなかったのだ。それでもその人のことも私は好きだった。

職場は3Kだったかもしれないけれど、仕事仲間は自分を剥きだにして付き合ってくれたように思う。バイトをやめるとき、心のこもった送別会をしてもらったことは大事な思い出だ。決して社会的地位は高くなかったかもしれないが、自分が個として社会の中に立っていたように感じた。だからそれぞれがそれぞれにカッコよく見えた。




そんなバイトで稼いだ金はほとんど旅行に使った。貧乏旅行で、主にアジア各国を回った。中国、インドネシア、シンガポール、フィリピン、タイ、ベトナム・・・を回った。泊りは一泊500円くらいの最低レベルのドミトリー、食事は屋台で、数万円握りしめて金が尽きるまで滞在するという自由な旅をした。

しばらく滞在したフィリピンのエリミタ(マニラでも1番の犯罪地区と言われていた)では、ショットガンをもったおっさんたちの中を、懐にナイフを忍ばせて歩いた。安ホテルに帰ると毎晩30匹以上のゴキブリを潰してからシャワーを浴びた。



そんなアジア貧乏旅行から関西空港に降り立つと、いつも強烈な違和感があった。目が違うのだ。きらきらあるいはギラギラした目でまっずぐに見つめてくるアジアの人たちと、互いに目を合わさないようにしている日本の人たち。端的に言うと、生きている目だらけの世界から、死んでいる目だらけの世界に帰ってきたような感じがした。

唯一日本でそういう生きた目に出会えるのは、日雇いやパチンコなど3Kの仕事仲間だった。



なんなんだろう、この社会は。

我が世の春を謳歌するバブル日本の中でそんなことを思った。








社会勉強が過ぎて、大学卒業が1年延びた。









つづく








三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-17 18:26 | 人生

その3.不便の神さま


「文武両道」と学生の頃、父からよく言われた。勉強もクラブ活動もしっかりやりなさいと。

中学校では陸上部に入った。幼稚園から続いていた朝マラソンはクラブ活動に引き継がれ、極めて自然な流れで幼稚園から高校まで陸上一筋で行くことになった。

幼稚園から走り始めたのなら名ランナーになっているはずだが、ピークは小学生の時で、最後は平凡な陸上部員になった。

勉強は小学校5年生から塾に通い始めた。塾では成績順にAからEクラスに分けられ、私はAクラスとBクラスを行ったり来たりした。こんなに激しく上下する塾生は他に居なかった。偏差値で遊んでいた。

中学校のテストはいつも学校全体で4番か5番くらい。学校の勉強は全然やらなかった。





高校受験をし、私立高校の特進クラスに特待生で入った。「なるべく偏差値が高くて、授業料のかからないところに入れ」という父のミッションはクリアしたと思う。

高校に入ってすぐの統一模試で志望大学を書く欄があった。「先生、高校に入ったばかりで大学のことなんてわかりません。」と言うと、「京大か阪大か神戸大のどれかを書いとけ」と言われてなんだか釈然とせず「京都芸術大学」と書いた。

高校に入っても変わらずクラブと勉強だけの毎日が続いた。ひとつの疑問が私の中で芽生えてきた。

「なんの為に勉強するんだろう。」

数学の先生にその疑問をぶつけてみた。先生はこう言った。

「そんなことは大学行ってから考えたらいいんや。大学では考える時間がいっぱいあるからな。だから今は余計なことを考えずに勉強して、いい大学に入れ。」

まるで予備校のような学校だった。





私はそれまで父や先生に与えられたミッションをクリアするのが人生だと考えていた。それで幸せな人生を送れると思っていた。

しかし先生にも先生の事情があった。創立3年目の新設校だったから学校も名前を売らないといけない。その為には生徒を有名大学に沢山入れないといけない。それが大人の事情だった。

悩みを深める私に先生たちは「考えるな。悩むな。勉強しろ。いい大学に入るのがお前の人生の為や。」とアドバイスする。しかしその背後に「何のためにお前を特待生でとったと思う?」という大人の本音も見え隠れして、逃げ場はなかった。






成績は急下降した。高2の夏の時点で、英語の偏差値は27まで落ちた。他の教科もズタズタになった。父のミッション「文武両道」は完全に粉砕された。

人生を恨んだ。塾の先生を恨んだ。父を恨んだ。高校の先生を恨んだ。大人を恨んだ。生きていくことを恨んだ。

「とにかく勉強しろ」という大人ばかりで、「人生をどう生きるか」という私の悩みに向き合ってくれる大人は一人も居なかった。人生を考えないで進むことは一歩もできないことを誰もわかってくれなかった。

もう学校をやめたい。でもやめられない。それなら死にたい。ひたすら大人社会を恨むしかなかった。





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そのころに時々参った神社である。

住んでいた住宅街から田畑を抜けた先の川の対岸にある。はるか上流にある橋を渡らないとこの神社には行き着けない。幸い私は陸上部で鍛えていたので、たまの休みの日に走っていった。家から往復でたっぷりと1時間はかかった。

一度途中で引き返したことがある。2メートルほどのヘビに道をふさがれた。ひやっと飛び上がって逃げた。

不便な場所でヘビがいたりするお陰か、参拝者など他に居なかった。



私はここが気に入った。自分一人しか参らないなら、この神様は俺が独占だ。この神様は俺だけを見てくれるはず。そんな不遜なことも思った。

ここで、ひとりで、ゆっくりと考える時間が必要だった。



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結局自分が悪かったんだと気づくまで、まるまる1年かかった。

父や塾の先生に自分の人生を委ねてしまったからいけなかったんだ。人任せにしたくせに結果に不満を言う自分がちっぽけでつまらない奴だ、ということを自覚するまで1年かかった。

これからは大事なことは自分で決めよう。どんな結果になっても「自分が決めたことだからしかたがない」と思えるほどによくよく考えて自分で決定をしよう。自分の人生の責任は自分で負おうのだ。

どんよりした雲間が晴れ、そう決意した。



「英語の教師になる。その為に俺は大阪外大に行く。」と「自分で」決めたのは高2の3学期だった。目の色を変えて勉強し、それから半年で英語の偏差値は逆さまになった。27から72へと。

先生も同級生もびっくりしていた。



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話は少し今に戻る。


つい先日、山の上で仙人のような暮らしをする人に、「便利は怖い」と聞かされた一言が深々と心に突き刺さった。まさに近頃ずっと考えていたことだったから。

自分自身も知らず知らず便利社会に吞み込まれている。昔はそうではなかったのに。。。。と昔を思い出した時に、この川向こうの不便な神社を思い出した。

「ああ、久しぶりに行ってみたいな。」と思った。弟子二人にも見せてやろうと思った。




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今回、神社の境内にある立札を初めて読んだ。

ここの神社は「開拓の神様」だと書いてあった。



ああ、道理で。

色々なことが腑に落ちた気がした。



30年経ってようやく私は自分の原点に立つことが出来たようだ。











つづく








三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-07 14:08 | 人生

その2.誰も通らない道


桜が咲き始めの山に入った。

「古里に行くが一緒に来るか」と訊いたら二人とも行くと言う。



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青春時代に辿った道を逆行する。

当時から人通りはまばらだったが、さらに寂れていた。道中他に誰にも出会わなかった。



途中に2回分かれ道がある。舗装道路か山道を選ばなくてはならない。せっかく来たのだから山道を行きたい。しかし山道の入り口にはこんな看板が。


<この先ハイキングコース通行止め。落石・土砂崩れ・斜面崩落等による事故が発生しても一切責任を負いません>




さあどうする。







我々は山道を選んだ。



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さすがに水は美しかった。



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倒木がふさぐ斜面を一生懸命ついてくる、大阪の街育ちの二人。



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誰も通らない道。

放置された倒木で道がふさがれていた。道が風化して無くなりかけていた。毎年の夏休みに父に連れられてアルプスを登っていた経験が無かったら、きっと迷っていただろう。

なんとかクリアした。




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二つ目の分岐点がやってきた。

「どうする」と訊くと「せっかくだから山道に行きましょう。」と言う。もとより「迷ったらGO!」が信条の私であるが、さすがにこの道の険しさに「ほんまかいな。大丈夫か。」と訊くと、「院長先生と一緒じゃないと行けないから。」と言う。

この言葉が妙に心に残る。




再び山道を進むことにした。

もはや道とは呼べない。


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完全に道をふさがれた。

斜面を登って迂回路があるかどうかを偵察。


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「あかん、引き返そう。」

今の我々に乗り越えられる道ではないと判断した。

まず挑んでみる。無理なら別の道をいく。





舗装道路もそれはそれで気持ち良い道だった。


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途中落石があってヒヤッとしたりしながらも、山の春の訪れを心ゆくまで楽しんだ。




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「一緒じゃないと行けませんから」と、いつも二人はせっかくの休みに私についてくる。

前にこの道を辿った青年時代の私には、ついてくる人間など一人も居なかった。今は家族と二人、それ以外にも沢山の人がついてくる。

いつからそうなったのだろう。この30年ほどで私はどう変わったのだろう。





長いようで短い道を踏み越えて、ようやく目的地。

原点に帰ってきた。







つづく。








三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-04-06 16:11 | 人生

体育に丹足をする


昨年からずっとわごいちの「想念の間」(スタッフルーム)の壁に貼ってある紙がある。

日付をみると、平成28年の10月27日とある。
もっと前からあったと思ったけれど、まだ4ヶ月ちょっとか。


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数年前に、学校でヒップホップを授業に取り入れるというニュースがあったように思うが、その後どうなったのかな。

このニュースを聞いたときには「ええとこ目を付けたなあ。」と感心した。


ヒップホップは良い。単にエクササイズのような運動になるだけではない。体の中心がしっかりして、それでいて末端は脱力した状態を体得できる優れた動きだから。あの動きをしようと思えば、しなやかで、それでいて芯の通った体になる。子供のうちにそういう動きを体に浸み込ませておくのはとても良いと私は思う。

しかしどうせヒップホップをやるのなら、阿波踊りをやったほうがもっといい。しなやかさと芯の通った体になるのはヒップホップも阿波踊りもどちらも優れている。しかし阿波踊りにはさらに下半身の粘りがつく。特に男踊りにそれが顕著だが、あの低い重心であの柔らかい足の動きを続けるのは相当な足腰の強さと粘りが必要になる。阿波踊りはとてもいいと思う。

総じて現代人は姿勢が悪い。胸を詰めて肩をすぼめて腰は反って足はO脚気味だ。こうなると息がつまって肩がこって腰が痛んで足も疲れやすい。マッサージ屋さんが儲かるばかりで、ろくなもんじゃない。

さらに心配なのは、姿勢の悪さが大人だけじゃなく、子どもにも目立ってきたことだ。お腹をすかせて野山を駆け回って遊んでいた時代の子供と、家でお菓子を食べながら勉強かゲームばかりしている今の子供で体が違ってくるのは当然のことで、だから昔は成人病と言われた様々な病気が、今は子供にも増えている。この子達の未来はどうなるのだろうと、ただただ心配ばかりしている。

この子達を救うため、子たちに元気な大人になってもらい、しっかり働いて我々の老後を・・それはいいとして、またその次の世代を立派に育ててもらうために我々は何をすべきか・・・・

色々な事を考えてきて、色々なことに挑戦してみてきて、最終的にはこれだなと思ったのが、




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である。





丹足はやはりすごいものである。

しなやかで芯の通った体作りという観点で考えても、ヒップホップと阿波踊りには負けない。

さらに下半身の強さと粘りの養成という観点でも、阿波踊りと丹足は図抜けている。

その上で、阿波踊りにはなくて、丹足にあるものがある。


それは「癒し」だ。


「癒し」は「相手への思いやり」と私は解釈している。相手を踏みながら、「気持ち良いかな」「どんな感じかな」「楽になってくれるといいな。」そういう思いやりを深めていくのが、癒しと言う行為の真髄だと思う。

学校で丹足を習う。単なる踏み方だけじゃなくて、ハラの使い方、ハラをしっかり使って相手を踏む。どういう姿勢をとれば楽か、つまり自然な姿勢かということを自ずから学び取る。その上でしっかり上下運動をして体を鍛える。

順々に先生を踏んでみるのもいい。いつも叱られている先生を踏みつける快感もあってもいい。踏みながら「どうすればもっと気持ちいいかな」と試行錯誤するのがとても大事な経験になる。

さらに家に帰って「お父さんお母さん、学校で習ったから踏んであげるね。」なんて展開もあるだろう。じいちゃんばあちゃんには何よりの孝行になるだろう。自己鍛錬をしながら癒しを実現するには、丹足の右に出るものはないと思う。

癒しを通して心を豊かにし、踏みほぐしを通して、体をしなやかで粘り強いものにしていく。丹足の練習ならばそれができる。どんどん体力が低下している子供たちをもう一度強くして将来に備えさせる。なんとか日本の体育の授業に丹足を取り入れさせたいなあ。やっぱり体が強くないと、アレルギーやインフルエンザに怯えてばかりの未来にはしたくないなとずっと思っているわけです。



まあ、そう簡単には行くまい。日本中の小中学校で丹足を教えるようになるには、20年、30年かかるかもしれない。インストラクターも育てていかなくちゃいけないからね。

しかしこれだけ学校があるのだから、「面白そうだし子供たちのためにやってみよう」という学校が一つや二つは見つかるかもしれない。いきなり子供たちには難しくても、まず先生たちやPTAの親たちが体験してみてもいいかもしれない。それなら今すぐにでもできるかもしれない(むしろ今丹足が必要なのは大人なのだ!)

今すぐにでもできることはあるはず。できることからやっていけば、段々と理解者も増えてくるだろうと思う。



夢はでっかいほうがいい。でもそんなに難しいことじゃないかもしれない。なんせ気持ち良いからね。受ける方も、踏む方も。


でっかい夢に向かって、強くしなやかに歩んでいこう。


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三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-03-07 14:57 | 人生



「原点が導くこれから」という感じでしばらく探り書きです。

by 三宅弘晃
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