照千一隅への道のり

カテゴリ:人生( 10 )

体育に丹足をする


昨年からずっとわごいちの「想念の間」(スタッフルーム)の壁に貼ってある紙がある。

日付をみると、平成28年の10月27日とある。
もっと前からあったと思ったけれど、まだ4ヶ月ちょっとか。


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数年前に、学校でヒップホップを授業に取り入れるというニュースがあったように思うが、その後どうなったのかな。

このニュースを聞いたときには「ええとこ目を付けたなあ。」と感心した。


ヒップホップは良い。単にエクササイズのような運動になるだけではない。体の中心がしっかりして、それでいて末端は脱力した状態を体得できる優れた動きだから。あの動きをしようと思えば、しなやかで、それでいて芯の通った体になる。子供のうちにそういう動きを体に浸み込ませておくのはとても良いと私は思う。

しかしどうせヒップホップをやるのなら、阿波踊りをやったほうがもっといい。しなやかさと芯の通った体になるのはヒップホップも阿波踊りもどちらも優れている。しかし阿波踊りにはさらに下半身の粘りがつく。特に男踊りにそれが顕著だが、あの低い重心であの柔らかい足の動きを続けるのは相当な足腰の強さと粘りが必要になる。阿波踊りはとてもいいと思う。

総じて現代人は姿勢が悪い。胸を詰めて肩をすぼめて腰は反って足はO脚気味だ。こうなると息がつまって肩がこって腰が痛んで足も疲れやすい。マッサージ屋さんが儲かるばかりで、ろくなもんじゃない。

さらに心配なのは、姿勢の悪さが大人だけじゃなく、子どもにも目立ってきたことだ。お腹をすかせて野山を駆け回って遊んでいた時代の子供と、家でお菓子を食べながら勉強かゲームばかりしている今の子供で体が違ってくるのは当然のことで、だから昔は成人病と言われた様々な病気が、今は子供にも増えている。この子達の未来はどうなるのだろうと、ただただ心配ばかりしている。

この子達を救うため、子たちに元気な大人になってもらい、しっかり働いて我々の老後を・・それはいいとして、またその次の世代を立派に育ててもらうために我々は何をすべきか・・・・

色々な事を考えてきて、色々なことに挑戦してみてきて、最終的にはこれだなと思ったのが、




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である。





丹足はやはりすごいものである。

しなやかで芯の通った体作りという観点で考えても、ヒップホップと阿波踊りには負けない。

さらに下半身の強さと粘りの養成という観点でも、阿波踊りと丹足は図抜けている。

その上で、阿波踊りにはなくて、丹足にあるものがある。


それは「癒し」だ。


「癒し」は「相手への思いやり」と私は解釈している。相手を踏みながら、「気持ち良いかな」「どんな感じかな」「楽になってくれるといいな。」そういう思いやりを深めていくのが、癒しと言う行為の真髄だと思う。

学校で丹足を習う。単なる踏み方だけじゃなくて、ハラの使い方、ハラをしっかり使って相手を踏む。どういう姿勢をとれば楽か、つまり自然な姿勢かということを自ずから学び取る。その上でしっかり上下運動をして体を鍛える。

順々に先生を踏んでみるのもいい。いつも叱られている先生を踏みつける快感もあってもいい。踏みながら「どうすればもっと気持ちいいかな」と試行錯誤するのがとても大事な経験になる。

さらに家に帰って「お父さんお母さん、学校で習ったから踏んであげるね。」なんて展開もあるだろう。じいちゃんばあちゃんには何よりの孝行になるだろう。自己鍛錬をしながら癒しを実現するには、丹足の右に出るものはないと思う。

癒しを通して心を豊かにし、踏みほぐしを通して、体をしなやかで粘り強いものにしていく。丹足の練習ならばそれができる。どんどん体力が低下している子供たちをもう一度強くして将来に備えさせる。なんとか日本の体育の授業に丹足を取り入れさせたいなあ。やっぱり体が強くないと、アレルギーやインフルエンザに怯えてばかりの未来にはしたくないなとずっと思っているわけです。



まあ、そう簡単には行くまい。日本中の小中学校で丹足を教えるようになるには、20年、30年かかるかもしれない。インストラクターも育てていかなくちゃいけないからね。

しかしこれだけ学校があるのだから、「面白そうだし子供たちのためにやってみよう」という学校が一つや二つは見つかるかもしれない。いきなり子供たちには難しくても、まず先生たちやPTAの親たちが体験してみてもいいかもしれない。それなら今すぐにでもできるかもしれない(むしろ今丹足が必要なのは大人なのだ!)

今すぐにでもできることはあるはず。できることからやっていけば、段々と理解者も増えてくるだろうと思う。



夢はでっかいほうがいい。でもそんなに難しいことじゃないかもしれない。なんせ気持ち良いからね。受ける方も、踏む方も。


でっかい夢に向かって、強くしなやかに歩んでいこう。


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三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-03-07 14:57 | 人生

人間の性



ようやく。。。と言うべきか。 『翔ぶが如く』全10巻を読み終えた。

男達が不器用で頑固で愚かで、でも懸命で誠実で潔くて、読んでいて切なくて何度も途中で挫折した。もともと読むのは早い方ではないが、この本は読み始めてから2、3年くらいも経ったろうか。



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それでも 『竜馬がゆく』 『最後の将軍』 『翔ぶが如く』 『坂の上の雲』という幕末か日露戦争までの道のりを一通り読み、ようやく感じとれたことがある。

どうして日本人はあんな酷い戦争をしてしまったのか、ということについて。



辛い過去に目を伏せる人もいれば、過ちを繰り返さないようにと直視する人もいる。司馬先生は歴然とした後者として、後世のわれわれが同じ過ちを繰り返さないようにとの願いを歴史小説の中に残されたと思う。

戦争に正しいも過ちもない。戦争が起これば大なり小なり文化は破壊され弱きは凌辱される。暴行や虐殺が全く伴わない戦争など古今東西どこにもない。誰でも戦争の中では精神のバランスを崩し、平常では考えられない行動をする。それは人間という生き物には共通の性として刻まれている。

ハラを触ると、人間の性の生々しさに呆れ果て、途方に暮れることがある。人は理屈だけで生きているのではない。感情だけで動いているのではない。それらの根底にハラがある。理性や感情の源であり、帰結であり、支配者であるハラから逃れて生きることは出来ないと痛感する。



「私は理性がしっかりしている」と口にする人間ほど危うい。そうことを口にする最中のハラは完全に沈黙している。まるで「やれやれ、こいつに何を言っても無駄だな。」とハラが言っているようである。そんなハラの気持ちなぞ全く省みない人間に触れていると、だんだんハラが可哀そうになってきて、代わりに言ってしまうこともある。「あなたの頭はそんなに立派なもんじゃないよ」と。

まあびっくりする。なんてこと言うんだとムッとする人もいる。でも理屈だけで自分を律することができるなら誰も苦労しない。「明日からダイエットするぞ!」という決意が挫折するはずがない。「旦那さんに毎日素敵な笑顔をするぞ!」という誓いが破れるはすがないじゃないか。

人は理屈だけでは制御できない。理屈は、環境の変化や自己都合が生み出す新しい理屈に、いとも簡単に更新される。「笑顔の絶えない幸せな家庭を築くって決めたのに、旦那さんに笑顔を返してもらえない自分が可哀そうになってやめた。」

性を省みないで理屈をこねくり回しても、結局こういうことになってくる。




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じわじわと戦争の足音が近づいている気配がある。

戦争を起こすのはヒトラーではない。東条英機でもない。

「自分は間違わない」「自分はちゃんとしている」「周りがおかしい」と考える人が増えて大衆を形成した時に、ヒトラーや東条英機のようなリーダーが台頭してくる。そんな風情はもう今の世間に満ち始めてはいないか。

司馬先生は歴史小説という形で、我々の性には、誰しも愚かな未来を招き寄せる要素があるという警告を残されたようにも感じる。



私はハラを揉む。ハラを感じ、ハラを語ることで、人間の性を伝えていこうとしている。

私が真に怖れるのは怠慢が引き起こす病ではない。狂気が引き起こす戦争である。そのどちらにも傲慢というハラへの無関心が見て取れる。





人のハラも思うほど綺麗じゃない。正しさだけを持っているわけではない。

それが良いとか悪いとかではなく、それがハラというものである。美しさも醜さも内包しているのがハラである。そういうハラの性を直視する。そこに生の喜びを感じとりながら、その上でどう感じるか。どう考えるか。どう行動するか。ハラをイキイキとさせて生きるにはどうしたらいいのか。ありのままの自分と共に、そんな自分を律していくにはどうしたらいいのか。どう生きればいいのか。

それを考え続け、伝え続けるのが、ハラ揉みをする人間の本懐ではないかと思う昨今である。





ああ。

また司馬遼太郎記念館へ「21世紀に生きる君たちへ」に触れに行きたくなった。










三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-01-29 05:18 | 人生

本分に生きる一年


すこし久しぶり。長らくぼーっとしていた。


少し長めの正月休みは家族旅行でゆっくりとした。温泉に浸かり酒を呑み、何も考えない時間を過ごした。何も努力しない時間を持った。年に一度くらいは空っぽの時間を持とうと思った。

私が何もしていない間にも、世間も、周りの人間も、その家族も、私の家族も、色々な出来事があったと聞いた。それぞれに悪戦苦闘しているようであった。

湯につかりながらじっと見守っていた。




温泉から見る空が美しかった。雲が様々な姿を見せてくれた。葉を落とした木々はじっと待っていたし、海は満々として穏やかであり、朝霧の立ち上る山は全く動かなかった。

空も雲も同じ姿を見せることは又とない。移ろいゆきながらも空は空であり、雲は雲だ。移ろいゆくのが移ろわないのが空であり雲であろう。

しかし山は動かない。動かないから山であり、動かないことが山である。

雲は雲として、空は空として、山は山として在る。

そんなことをぼんやりと湯の中で思った。




私たち人間にも、雲がいて、空がいて、山がいて、海がいるように思う。

雲のような生き方をする人がいて、空のような生き方をする人がいて、山のような生き方をする人がいて、海のような生き方をする人がいる。

自然界に雲と空と山と海が必要なように、人間界にも雲と空と山と海のような人が必要じゃないかと思う。

空があるから雲があり、雲があるから海があり、海があるから山があって、それぞれの存在がそのまま役割となって互いを生かし合う。その違いと繋がりこそが尊いと感じる。



人にはそれぞれ本分というべきものがある。本分とは持って生まれた素養と、これまでの人生で培ってきた人格によって見いだされる。そう考えるならば、人ぞれぞれの本分というものは思うように変えたりすることは難しい。生まれ持った素養は変えられないし、何十年とかけて作ってきた人格は一朝一夕には変わらない。

まだ10代の思春期ならばいざ知らず、40歳を超えればもう本分には逆らわず、自分の本分を知り、それを生かすことに努めないとなかなか生活が難しくなるのではないだろうか。


私の周りの人たちの出来事をみていると、あるいはニュースなどで世間の人たちを観察すると、どうにも自分の本分をまだ見いだせていない大人が多いように感じる。

雲が山を気取ったり、海が空になろうとしたりしていることはないだろうか。雲は雲として良き雲になるしかない。海はよき海になるしかない。それなのに、自分の本分が雲であることを知らず、友達の海に憧れて自分も海になろうと無理強いするときに、自分も周りも不幸を抱えることになるのではなかろうか。

だから私に相談に来る人たちには、その人たちがそもそもの本分を間違っているときには、「あなたは空じゃなくておそらく雲だよ。」と言ってあげることもある。「ああそうだったのですね。どうりで。。。。」とすっきりした顔になってくれると私も嬉しくなる。




実はつい最近まで、私も自分の本分を見つけ得なかった。

湯に浸かりながら、私は今の世間を想った。世間を想い、自分の本分を想った。



今の人間社会は、雲と空と山と海の違いをそのまま受け入れる度量が少ない、そんな風に思う。空は晴れ渡っていなくてはならないし、山が雲で隠れるとイライラする。周りのことを自分の思い通りにしようと無理強いする。

海があるから雲があることを、雲があるから空であることを、山があるから海が豊かになることを、それぞれの立場から相手の立場を思い遣ることを忘れそうな社会に我々は今生きている。

海の真ん中で山でいることは勇気がいる。青空に浮かぶたった一つの雲でいることは不安になる。皆と同じでありたい。皆と同じ中にいながら、その中で自由を謳歌したい。そういう人生を多くの人が求めている。



本分を自覚し、本分に生きようとする者にとって、今の世はとにかく生き難いものである。本分に生きようとする人間を過剰に崇拝したり、逆に卑下しようとする風潮がある。そしてその風潮を作っているのは、その人たちの無自覚なコンプレックスであると私は考えている。

本分に生きたいと願う人もいるのは知っている。しかしその人たちの多くは、今の時代に本分に生きることの難しさを予見し、ためらい、悶々としながら月日を重ねていることも私は知っている。

だから思う。今の時代に最も必要なのは、自分の本分を知り、自分の本分を貫く強さを持った人間であるということだ。人に何を言われようが、自分の本分を感じ取る純粋さと、それを信じて疑わない強靭さをもつことが大事だということだ。そんな人間が一人でも多くあらわれてくると、人間界も自然界に負けないくらいに多様性に富んだ強くて美しい社会を作っていくことが出来るんじゃないだろうか。


私はこれから自分の本分を力いっぱい育てていこうと思う。それが結果として周りの応援になるならば、何よりであろうと思う。そんな1年を今から始めようとぼんやり考えた。



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三宅弘晃

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by wagoichi | 2017-01-10 16:01 | 人生

プーチンは食わねど高楊枝


武士は誠に大変である。

戦時の主役である彼らも、平時においてこれほど無用の長物はない。「万が一の戦争に備えて」あるいは「抑止力として」存在し、平時においては何も生産せず、ただ皆から食わせてもらっている。

「あいつら必要なのか?」と陰口を叩かれることもあろう。太平の世で収入は減り、生活は次第に窮乏し、金に困ることもあろう。それ見たことかと札束で顔をはたこうとする金貸しもあろう。あわれみ食べ物を恵もうとする農民もあろう。

しかしその際に「俺は困っていないぜ」と、高楊枝を咥えて平然と構えているのが武士たる者の心得である。


なぜか。


それはなめられたら終わりだからである。相手になめられたら武士としての存在意義がなくなる。町人や農民に哀れまれたら、いざという時に武士として立てなくなる。敵が不意に攻めてきた時に皆が武士を頼らなくなる。頼りのなくなった町人や農民は、オオカミに襲われ四方八方にただ逃げ惑う羊の群れのごとく化し、敵に蹂躙されること必定である。これでは武士の仕事が全うできない。

万が一の確かな守り人として、武士は平時から威厳を保っておかねばならないのだ。

その心得を叩きこむために、自分の仕事を全うするために「武士は食わねど高楊枝」と自分に言い聞かせ、空腹に耐えたのだと思う。私がとても好きな言葉の一つである。




整体師も似たようなものである。

いくらリピートが欲しいからって「お疲れですね。自分の体にもご褒美を与えてあげてくださいね」なんて歯の浮くようなリップサービスは気持ち悪いだけである。

例えお客に嫌われ収入が減ろうと、毅然と「そんな生活習慣では病気になりますよ」と言うのが整体師の仕事である。言うべきことを言い、技を駆使してお客の健康を守るのが仕事であって、整体師が威厳を失ってはお客の体は守れない。

整体師も食わねど高楊枝である。楊枝を高くくわえ腹を空かせ、必死で腕を磨くのである。




いや、今は整体師のことはいい。

どっちかというと今私が興味があるのはロシアのプーチンさんである。




大変なのは本当はロシアのはずだ。

西側諸国の制裁で、資源価格の低迷で、経済はガタガタである。

日本経済もなかなか大変とはいえ、ロシアほどには困ってはいない。日本も北方領土の問題を解決はさせたいが、今現時点で本当に困っているはずのロシアがどうしてこれほど優位に交渉を進めているのだろう。誠に不思議、を通り越して見事である。



思うにプーチンさんは「武士は食わねど高楊枝」を決め込んでいる。

「俺は別にどっちでもいいんだぜ。あんたらが話し合いをしたいんなら、金次第では相談にのってやるぜ。でもあんまり甘えたこと言っちゃあ破談にするから気をつけな。」

このようなスタンスでプーチンさんは、歴史に名を残したくて焦る安倍さんを手玉に取り、政権に追従し騒ぐだけの日本のメディアを翻弄している。

プーチンは見事だ。流石に体を鍛えているだけのことはある。一方の安部さんは。。。。お腹に難病を抱えながら大好物のアイスを食べている。

残念だけれどどこれでは逆立ちしても勝ち目はない。




「武士は食わねど高楊枝」


仕事が戦いであるならば、政治家も経営者も官僚も会社員も職人も、皆武士の様なものであろう。

であるのに、皆目先のことばかり心配している。仕事は首にならないか。会社はつぶれないか。周りの評価はどうか。年金はもらえそうか。目先の心配ばかりして、誇りや威厳をもって自分の仕事に向き合う人が少ないように思う。

当面の先行きが不安でも、いちいちじたばたしないでドンと構えていればいいのである。人生そういう時も必ずある。命までは取られない。またいずれ機会はやってくる。それまで腕を磨いておけばいいのである。

焦ることは何もない。目先の利益や不安に振り回されては、人間がちっぽけになってしまう。


腹が空いたまま楊枝を高く高く掲げる。それもまた人生ではなかろうか。









三宅弘晃

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by wagoichi | 2016-12-14 17:29 | 人生

自分が何をしたいのか


少しずつわかりかけている。


人生で一番難しいのは、自分が何をしたいのかを見つけることかもしれない、そんな風に思う。

若い時なら、ある程度しっかり考えた末の「自分が何をしたいのか」であれば、あとは勢いで突き進むことができる。例え間違ってもまた軌道修正ができるからだ。

しかし年をとってくると少しそういうのが難しくなってくる。軌道修正の機会がもうあまりない。段々と背水の陣の覚悟が必要になってくる。ある程度の経験を積みエネルギーもある40代という人生の黄金期に何を為しておくか、それは人生の成果を決定づける要因になりはしまいか。



「何を言っているんだ」と、人は言うかもしれない。あんたは充分に成功者だし、このまま行けばいいじゃないかと、そんな風に言われそうな気もする。

確かにこれまでの自分の人生は上出来かもしれない。28歳で脱サラし裸一貫で整体院を始め、並び立つ者なきおなか揉みの技術を確立し、今や全国各地からわごいちを頼ってきてくれる。手におえないような病気はもう多くないし、うちのお客たちは有り難いくらいに品がよいし、家族は円満だし、明日のご飯を心配することもないし、体は元気だし、髪の毛もまだ抜けてない。

充分じゃないかと。


このままわごいちを守っていけばいい。わごいちはこのまま幸せを守っていけばいい。下手に規模の拡大に走らず、営利に走らず、誠実により一層のよい仕事を求め続けていけば、それだけで充分幸せじゃないかと、そういう考えもゼロではない。またお客サイドも、そういう気持ちの方は沢山おいでかと推察する。




でもあかんねん、そういう考えじゃ。



今わごいちが守っているのは、わごいちに通う人だけ。わごいちの屋根の下に入った人だけ。そして自分達だけ。わごいちの傘の中に入った人間だけが、癌にならずにすんでいるだけ。大病から免れているだけ。自分達だけが自分の健康に万全の自信を持って人生を楽しんでいる。でも他の人のことは知らない。

そういう話じゃないのか?



若い世代はどうする?

すでにもう若者のおなかは弱り始めている。中年も老年も弱ってきているが、若者の事態はより深刻。アイスと唐揚げで育ったようなやつが沢山いる。20代で生理がないやらおかしいやら、食べられないやら太れないやら働けないやら、こんな20代が溢れる時代が過去にあっただろうか。

彼ら彼女らのおなかはすでにもう弱っているんだ。10年前の20代とは全然違うんだよ。

彼らはこれから数十年生きていかなくてはならないが、20代でこんな体で、この先どんどん老化が進む中で、どうやって健全に生きていく?




わごいちは大事だ。大事で貴重な場であることには変わりはない。

でもわごいちだけではダメなんだと、それはもうこの数年で顕在化した。ごく一部の大人だけを守るわごいちは、自分たちにとっては大事だけれども世に必要とされているとは言えない。世の人を、未来ある若者を見て見ぬふりをして自分の幸せを守って、それは本当に幸せなのか。それは本当の意味で健全なのか。





これからは我が身を半分に割ってみようと思う。

わごいちは、引き続き我が半身と弟子たちの総力を挙げてこのまま力をつけていく。ものすごい整体院になるだろう。まだまだ伸びしろは沢山ある。


そして残る半身の在り方を考えよう。

これまでの千照館や講演会のように、わごいちの合間を縫うような仕事の在り方ではなく、私の半身はわごいちから完全に出よう。そして半身の全て(ちょっと変か?)を懸けて仕事をさせよう。全身全霊の半身で、何を為すべきか。為したいか。為すか。一から一人から。

何からはじめるか、まず考えよう。


向かう先は、社会であり未来である。これだけは決まっている。それ以外はまだ定まってはいない。








弘晃

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by wagoichi | 2016-12-09 19:23 | 人生

欲と本能


久々に休みをとったらきっちりと寝込むことに。

夕食後に寝込み始め、夜中に一度嘔吐、そのまま1日半寝続けた。

食べ物はおろか、水さえも受け付けないのは初めての経験。

「水を飲んでもお腹が苦しいんです」とわごいちを頼ってきた超胃弱のあの子のことを思い出したりした。

普通なら水も飲めない状態で丸一日以上となると心配だろが、そういうのはなかった。

今は胃が受け付けないのだから、仕方がない。理由があるのだろう、と。

昔飼っていた柴犬のランは19歳まで元気に生きたが、こういう時は丸くなってずっと寝ていた。

心配になって大好物の牛乳を置いても一瞥をくれるだけで飲まない。

じっと、じっとして体が治ってくるのを待っていた。

こういう時はいつもランを思い出す。いつもランが教えてくれる。こうすればいいんだと。何も心配いらないと。



復活した今もぼんやりと半日を過ごしている。

特になにも焦ることはない。少し動いたり横になったり。

少し食べたり、話したり。


いつの間にこんなに忙しくなったんだろう。


生きるなんて本来は食って寝るだけの繰り返しであるはずだ。

そんなに複雑なことは何もない。


そこに人間は欲が絡んで、色々と複雑にしてきている。

複雑化し、巨大化した欲が、小さく素のままに生きる生活を飲み込む。

その先に幸せがあるならばいいが、それがないことは皆感じている。


複雑化し巨大化する欲と、それに抗う個の本能がせめぎ合う。

ただ食って寝て、時折笑えればいいだけなのに、

それが奪われる。


だから戦わなくてはならない。守らなくてはならない。

あるいはせめて自分たちだけの安全を確保しなくてはならない。

どちらにせよ先は見えない。


表面の戦いをしても仕方がない。

その奥の欲をなんとか納めないと。

欲を好ましく納め、活かす智恵を体得できるのか。


長い歴史の中でようやく人類が辿り着いた、次なる試練なのだろうか。











弘晃

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by wagoichi | 2016-12-07 16:46 | 人生

男の仕事


昨夜は、久々に吞んだような気がする。

1軒目で、地酒をグラス4杯。2軒目で、同じく地酒を7杯か8杯くらい。2人で一升くらい呑んだような気がする。そう言えば締めに米焼酎もロックでいったような気もする。

まあそれくらいいい時間だったということ。



付き合ってくれたのはI氏。ほぼ同年代の男性。

I氏も私もモテ男なので、いつも飲みに行くときは女子供がついてくる。「たまには男二人で行きましょうよ。」とお誘いして昨日の呑み会となった。


呑みながらいろいろなことを話した。細かいことはいちいち書かないが、仕事のこと、家庭のこと、仕事で出会った人や出来事、親父さんたちの時代のことから今の若者のことまで、色々話をした。知り合って数年経って初めて、ゆっくりと互いのこれまでと今を共有した。

改めて男の仕事というものを考えされられた一夜だった。




仕事とはなんだろうか。生活費を稼ぐための活動だろうか。生きがい探しの活動であろうか。他になにか目的があるものであろうか。何十年と自分の貴重な人生の時間の大半を費やす仕事とは、一体どういうものであればいいのだろう。


I氏には7歳年上の兄がいる。I氏の兄は父親から家業である町工場と共に、借金も相続されたそうだ。ちょっとやそっとの借金ではない。目ん玉が飛び出すのを慌てて押さえなくてはならないほどの金額だった。

この家業と借金を、兄上が一身に背負い、弟であるI氏もできる限りの協力をして、近頃ようやく返済の目処が立ってきたらしい。誠にお疲れ様です、と思わず頭を下げたくなるお話を聞かせていただいた。


I氏は自分で商いをされているが、兄上の工場が忙しい時は手伝いにいくこともあるという。「もちろん兄上もそういう時は現場作業されるんですよね。」と訊くとそうではないらしい。兄上は現場にいる時はいつもスーツ姿。現場作業は絶対にしない。その代わり営業力は抜群で、びっくりするほど仕事をとって来るらしい。

「兄上の営業と他の人と、何が違うんでしょう。」と重ねて訊くと、「迫力でしょうね。」とI氏は答えられた。背負っている物が違うんだと。莫大な借入金を背負っているからこその迫力が成果に繋がるのであろうと。例え兄弟であっても、社長として家業を継いだ兄と、手伝いの自分では迫力は全く違う、ともI氏は言われた。



そうか、と思ったのである。

仕事とは背負いに行くこと、そういう仕事の向き合い方もあるのだと改めて納得した。不幸にもI氏の兄上は、絶望的なほどの借金を親から引き継がれた。自分が作った借金じゃない。例え工場の為の投資であったと頭では納得しても、いざ月々の返済額をみると、心がくじけそうにもなるだろう。実際にくじける人のほうが多いだろう。

しかし兄上はくじけない人だった。親の作った借金を自分の人生の中に受け止め、自分の仕事として返済のための懸命の努力をされた。借金もプレッシャーも全てわが身に背負われたのだ。

世の中にはこういう仕事の向き合い方もある。ただ単に生活費を稼ぐための仕事ばかりではなく、誰も責めずに責任を背負い込むような仕事の向き合い方もある。

「個性のきつい兄ですから、昔から今に至るまでぶつかることも多々あるんですが、結局兄が借入金を背負ってくれているから、僕はこうして自分の生活をできるんです。兄が自殺したり自己破産したら、借入金は僕のところに来るわけです。」

だからずっと振り回されながらも兄上を支え続けてこられたのだと、I氏は話してくれた。



やはり男の仕事は、生活費だけではもの寂しい。

背負うのだ。背負えるだけ以上のものを常に背負い、自分を鍛える。先の保証なんて何一つない。あるのは自負心のみ。それでも戦うのが仕事の醍醐味じゃないだろうか。

家族は大事である。家族を食わせるのは男の責任かも知れない。でも無事に食わせればそれだけでいいと思うか否か。家族を背負うのは当たり前。当たり前以上のことを背負いに行く、そんな男の仕事があってもいいのではないだろうか。


そう考えてみると、いつの間にか私の仕事もそうなってきていることに気付かされる。

家族の安泰だけが絶対条件ではない。場合によっては肉親の縁を断ち切っても仕事を貫かねばならないこともある。周りの人になんと言われようが引き下がらない。男の仕事はそう簡単には降ろせない、そういうものだと考えはじめている。

世の男たちが好きな、坂本龍馬も真田幸村も自分の仕事の為に肉親を捨ててきた。彼ら自身も天寿を全うできなかったが、果たしてそんな運命を呪っただろうか。おそらく逆じゃないかと思う。

時代錯誤と言うならそれでもいい。でも男の仕事は本質的には、変わらない。男と女という二つの性別がある限り、男だからこその仕事があるはずだ。時代が変わってもそれは変わるもんじゃないだろうよ。



そんなことを思った夜だった。










弘晃

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by wagoichi | 2016-11-22 15:00 | 人生

土からの教育


「この人にお会いしたい」と思う人は、いつも既に亡くなっていたな。

西岡常一棟梁、カリアッパ師、マイケルジャクソン、福岡正信翁。「ああ、遅かった。」と、我がアンテナの鈍さを悔やみ、現代には偉人は生まれないのかと悲観にくれた事もあった。

だから偶然に古本屋で手に取った『土からの教育』を読んで感動した時も、もはや過去の人であろうと勝手に決めていた。念のためネット検索をするとまさかのご存命で「養生説法」という講演活動をされていると知った時には、PC前で思わず小躍りしてしまった。

そして今年の3月末、一族郎党を引き連れて著者である竹熊宜孝先生、通称クマ先生に会いに行った。結果としては熊本大地震の1週間前の訪問となったのだが。



私が心惹かれる人間は、どうも大自然と向き合っていることが多い。

クマ先生や福岡正信翁は農家。クマ先生は医師でもあるが、「百姓が医師をしているんです。」と仰っている。医師が百姓をしているのではないと。カリアッパ師は日本ではあまり知られていないが、少し昔のヨーガの大聖者である。ネパールのカンチェンジェンガというヒマラヤ山脈での過酷なヨーガの修行に生きられた方。西岡常一棟梁は宮大工。『木に学べ』などの著作に記されているが、木の心を想い、木の一本一本の個性を見極めながら寺社をくみ上げていった人。

共通しているのは、自然と真摯に向き合う中で、その奥にある「命」を感じ取り、その命を形に生かそうとしてこられたということ。


だからといって、たまに居る「花とお話しができる花屋さん」のような人たちと一緒にしてはならない。西岡棟梁も福岡翁も木や自分が土と話ができるとは決して言わない。

「そんな風に扱っては、木が痛い痛いと泣いちょります。」と西岡棟梁は時に若い大工に助言されたらしいが、これは木に思いやりをもって仕事をしてほしいというヒントであって、自然の命に奥深さに触れたものは、軽々しく自分がその代弁者であるというような振る舞いは到底できないものだ。

と、まるで本人の言葉のように言うが、もちろん勝手な私の想像。しかしあながち外れてはいないだろう。自然と人間の関係とはそういうものであり、それ以上には決してならないのだから。




さて話をクマ先生に戻そう。

今回の熊本義援金ツアーは、七ヶ月ぶりのクマ先生との再会でもあった。初めてお会いしたとき『土からの医療』そのままのクマ先生に触れ、「まだ現代にもこういう人たちが残っているのだ!」と勇気をいただいた。

それからの7ヶ月間、世界は益々危うくなっている。社会も刻々と不安を増している。それもそのはず、国家や社会の基盤となる家庭がとめどなく空虚な場になっていっている。

人は目先のお金と健康にばかり関心を持つ。健康でお金に困らなければ幸せに生きていけると思っている。



ばかじゃないか。


と言いたい気持ちをぐっとこらえて、いや時に口から飛び出したりしたこともあったような気もするが、どうやったら「本当の幸せ」に向かって語らい合えるだろうか、自分のおなかが発している命の声を聞こうとするだろうか、それを毎日毎日考え続け、鍛錬をし、本を読み、講演をし、整体をしてきた。この10年ほどはずっとそこに挑み続けている。そして跳ね返され続けている。

「俺のやっていることは無駄じゃないのか。」と虚しさに沈み、子供たちの笑顔を見て「下を向くな!」と己を鼓舞し、また沈みの繰り返しの日々が続いている。

しかし私なんてほんの10年ちょっと。私の今やっていることを、すでに何十年も前から続けてきたクマ先生は、一体どうお考えなのだろう。どうしてもそのお気持ちを聞いてみたいと思い続けてきた。



クマ先生の著書を読む限り、クマ先生もありとあらゆる方法で、人々に命の大切さを伝えようとされてきた。私なんかよりもよっぽどユーモアセンスに富み、人を楽しませるのが上手なクマ先生が、手を変え品を変え人々に語りかけられてきた。

しかしそんなクマ先生のこれまでの道程の中に、「ああ、自分の想いが伝わってどんどん広がって人々が変わっていく。」という感慨は見つけられなかった。むしろその行間からは、切なさやあきらめのようなニュアンスを感じることさえあった。


福岡正信翁からも同じ匂いがする。翁が晩年にインドを訪問されて人々にこう語りかけられた。

「私はもうやれることは全てやったんです。私はもう世界をあきらめているんです。」

そう言い切りながらも、その後にこう続けられた。

「しかしあなた達は、ガンジーの教えに触れたあなたたちは違う。あなたたちは自然の理を知り、この世界をより良くしていくことができるはずだ。」

絶望の中から希望を見いださんと、我が身を絞り上げるような生き方、その厳しさは経験した者にしか分からないはずだ。福岡正信翁の著書『わら一本の革命』の後半部など、苦しくて読めたものではない。





今回の再訪の際に、クマ先生にお聞きしようと心に決めていたことがある。クマ先生以外にこの質問をぶつけられる人が他にいないから。

クマ先生のご案内で養生農園を見せてもらった。クマ先生は自分たちの自然農法の畑と、隣の農薬まみれの畑を比べながら、命を見ようとしない人々について話された時、今だと思い、尋ねた。


「先生、人々はいつか気づきますか?人間は変われますか?」


反応がなかった。

先生は高齢ですこし耳が遠くなっておられる。聞こえなかったのかもしれないし、もしかしたら聞こえていたけれども・・・・・・

失礼を承知で重ねてお聞きした。私にはどうしても、生きている偉人の口から生きた言葉を聴きたかったのだ。


「先生、人は変われますか。」












「変わらんよ。」



一言だけ、はっきりとそう言われた。

しかしさすがはクマ先生。すかさず私の後ろを歩いていた権藤君を振り返ってこう言葉を重ねられた。まるで前の言葉を打ち消すように。

「それは彼ら若者が決める。彼ら次第だ。」







失礼を重ねるが、クマ先生の人生にあまり時間は残っていない。

私には、クマ先生よりまだ少しは時間があるはずである。


が、


クマ先生と私が見つめる未来は、あまりにも遠い。



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弘晃

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by wagoichi | 2016-11-14 14:10 | 人生

義援金もっていくぞ


今夜大阪を立つ。行き先は熊本である。夜行バスで往復する年甲斐もない強行軍である。


義援金。

わごいちのお客、千照館の門人、講演会の聴衆、ブログやFBの読者の方、様々な人が、あえて赤十字のような大手ではなく、我々のような「ささやかでも顔の見える支援を」という呼びかけに応じて、義援金を託してくれた。

集まりも集まったり、計 448,090円もの義援金を預かった。気持ちのこもった手紙もついている。すごく精一杯のお金を預けてくれた人も居る。熊先生の本を何冊も買っていってくれた人も居る。重たい義援金になった。

みんな本当に幸せだなあ。




ケニアのスラム街でストリートチルドレンを支援している早川千晶さんという素晴らしく魅力的な女性がいる。

早川さんによると、ケニアで親を亡くしたり捨てられた子どもがスラム街にやってくる。彼ら彼女らは屑拾いなどをして、わずかばかりの日銭を稼ぐ。その稼いだ金で食べ物を買うのかと言えばさにあらず、シンナーを買って吸うらしい。

なぜ食べ物じゃなくシンナー?

実はそのわずかな日銭では、彼らの胃袋を満足させるだけの食べ物を買うことが出来ない。そこで、そんな中途半端な食べ物を買って食べるよりも、シンナーを吸って脳を麻痺させる方がましなのだと。もちろんそんな日々では彼らの若い命はたちまちにボロボロになっていく。

平和な日本でのほほんと生きて来た自分を思い知った。


そんなストリートチルドレンを引き取り、スラム街の中に学校を立てて教育支援をしている早川さんと出会い、その話を聞き、じっとしていられない気がした。自分も何かしたいと思った。

妻と相談し、学校の活動資金集めの日本ツアーをしている早川さんに連絡し、大阪と兵庫で1回ずつイベントを主催した。10年ちょっと前のことである。会場を押さえ、数十人ほど人を集め、皆で早川さんのお話を聞き、ケニアの音楽を楽しみ、参加費とグッズの購入で参加者がそれぞれ思い思いにエールを送った。

皆が初めて聞く話にじっと耳を傾け、時に目頭を押さえ、太鼓のリズムに酔い、声を出して歌った。ケニアのスラムと日本の我々が早川さんを通して繋がったような気がした。

そんなイベントを企画して、何とも言えない自負を感じた。

ありがたいな、と思った。早川さんに感謝せずにはいられなかった。




支援とは誰のための物か。

支援を受ける人のことはいちいち言うまい。少しでも元気になれば嬉しいのは当然のこと。

でもここでは支援する側の幸せについて語りたい。皆で語り合いたい。



ああ、俺は生きているぞと。ちゃんとこの社会で、人と人の関わりの中で生きているぞと。ささやかでも行動に移せたと。少しだけ自分を認めてもよいかなと。

自信とはこういうことの積み重ねではないだろうか。



腕に重たい義援金を抱え、想いをよせてくれた人の顔を思い浮かべながら、夜行バスの夢のなかで皆さんと語り合おう。

俺たちはなんと幸せ者だろうよ、と。











弘晃

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by wagoichi | 2016-11-07 20:21 | 人生

運命を変える



わごいちには日本津々浦々から人がやってくる。

今日新しくやってきた二人は、高知県と東京都から。


幸い二人とも命にかかわるような悩みではなかったけれど、高知から来た女性は、「こういうことを解決してくれるのは他にはないから」といってしばらく通うことになった。

よくもまあ溢れかえる情報のなかからわごいちを見つけ、はるばる通おうと決意をしてきたものだと感心する。




ところで、人はよく「これは私の運命だから仕方がない」という言い方をする。

実はそれは大間違いである。



命には運命と宿命がある。

宿命はもともとの定めのようなものだから変えようがない。しかし運命は自分で命を運ぶこと。だから自分で変えていくことができる。



例えば、自分を産んでくれる親は選べない。これは宿命。

しかし、産れ落ちた家庭でどのように人生を切り開いていくかは、成長と共に自分で選べるようになってくる。これを運命という。

重ねて言うが、運命は自分で変えていくことができるのだ。





仕事柄、たくさんの病人と出会うが、「これが自分の運命だから仕方ない。」「私はなんて不運なんだろう。」と嘆いているい人は、運命と宿命を混同している。

そういう人は、せっかく目の前にある助けに気が付かなかったり、疑ったりして取りこぼす。s




それに対し、「自分の運命は自分で変えられるはず。」と感覚的経験的に知っている人は、「今、自分は何をすべきか。何ができるか。」を考え、行動に移すことに躊躇しない。

だからネットで見つけた大阪の整体院に高知からやってきたりする。そして自分の運命を変えていく。

「さすが、坂本龍馬の国からきた人じゃき」(高知弁風?)と変な感心をしてしまった。





「俺はなんてついてないんだ」なんて思ったら負け。

「この苦しみは自分がどう命を運ぶか試されているんだ」と思って、しぶとく解決策を探すのが一番じゃき。









弘晃

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by wagoichi | 2016-11-04 21:34 | 生きる



ようやく癌解説2つ目完了。3つ目が・・・3つ目が大変なんだよ。テーマは決まっているが、どう伝えたらいいのか。。。。ああぁぁ
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