照千一隅への道のり

カテゴリ:仕事( 4 )

センスクイズ(中級)


前回の「センスクイズ」。いきなりの出題の上、当日回答〆切という無茶ぶりにもかかわらず回答を寄せられた皆さん、どうもありがとう。楽しく拝見しました。

参尽もブログで上げていた通り、答えは「軸の有無」ということでしたがどうでしたか。簡単すぎた!という人もいたみたいなので、今日は第2問を用意しました。ちょっと難しいですが、これは非常に考えるのが楽しいクイズです。チャレンジしてみてください。

では。


<センスクイズ第2問>

「丹足をする動物のイメージは、鳥が一番良い。それはなぜか。」

丹足をさせるなら、鳥がいいんです。ゴリラでもライオンでもカンガルーでもいいけれど、鳥が最適なんです。ツバメでもハトでも、鶏でもペンギンでも。もちろん今話題のダチョウでも。とにかく鳥類がいい。哺乳類より鳥類がずっといい。ちなみに爬虫類・両生類・無脊椎動物はいろいろなタイプが居てややこしいので除外。魚類も足がないので除外。哺乳類と鳥類で比較すると、鳥類は丹足が上手くやれそうな何かがより明確にある。だから鳥がいいんですね。おっとっと、ヒントを言い過ぎ。

さあ、考えてみましょう。今回も正解者には本を贈ります。答えは参尽ブログにお寄せ下さい。(回答期限 3月21日)


ちなみに弟子二人は、このセンスクイズ第2問も撃沈。あまりに不甲斐ないので、今日の稽古の帰りに飲み代をおごらせた次第です。でも私の回答を聞いたら「言われたら。。。。ホント。考えたことなかったけど、ほんとそうですね。。。」とすごく感動していた。

5年、10年教えて、、、、やれやれです。






さて近況。


ここ数日の間にいくつかあった出来事がとても印象的で、なにか示唆的なものをも感じさせられた。結果としてそれらは、これまで私のハラの中で育ちうごめいていたものに対し、陣痛のような働きかけをしたようにも思う。

これまでやってきたこと、悩み続けたこと、その中で私は何を求めてきたのか、15年ずっと考えてきた。わごいちや千照館はゴールではなかった。整体が全てではなかった。健康が一番ではなかった。自分がどこに向かおうをしているのか。ずっと探し求めてきたものが、ようやく形になって見えた。ハラの中で卵が割れて正体が現れた。白地だった旗に書くべき言葉が見つかった。

使命に向き合って生きていこうと決めてきた。しかし同時に、何にも縛られず自由に生きたいと願ってきた。矛盾を飲み込めないふたご座にやきもきしてきた。

どうせ生きているのなら太い仕事を求めたい。あんたすげえ仕事をしたなと、おかげで助けられたよと今の世の人達が喜ぶ、未来の人達もすげえ人がいたなと驚く、そういう仕事をしたい。かねてからそう思ってきた。でもそれが何かが分からなかった。両手のますかけがずっと疼いていた。




我がライバルは、やはり1000年先まで残る薬師寺西塔を立てた西岡常一棟梁であろう。日本を外国の侵略から救い、今なお日本人にロマンを与える坂本龍馬であろう。その領域に割って入れるか、どうか。


日に日にたぎりゆくこれからである。











三宅弘晃

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・重刀100丹
・かちあげ四股100丹


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by wagoichi | 2017-03-19 02:40 | 仕事

照千一隅

少し気になって、どのくらいの資産を自分が持っているのかを確認してみたところ、意外に多くの資産が眠っていた。私の固有資産は、大きく3つあるようだ。

一つ目は「ハラ揉み」という技術である。

わごいちで日常的に行っている施術。ハラを揉む。ハラを中心として全身を揉む。ハラを中心に肉体の滞りを揉み解し、萎縮したココロ、硬直したアタマにハラから熱い血を流していく。そうして人間を本質から改造しようとする施術。

この資産は今のところ私がほぼ全てを独占している。二人の弟子が一生懸命にその修得に励んでいるが、まだまだ入り口に入ったところでジタバタとしている。5年10年やってこれだから、この資産をどうやったら相続できるだろうかと途方に暮れている。今、私が死んだらこの資産は霧散する可能性が高い。

二つ目は「丹足法」と足で踏むほぐし法である。

元々は「足圧法」という名前で柔道整復師の桜井寛先生から教わった技術だが、この足圧法を施術者の自己心身鍛錬法へと昇華させ、その恩恵として足圧法よりもはるかに大きな施術効果を実現したのが「丹足法」だ。これも私が産み出した。

丹足法はハラ揉みよりは修得しやすい。また丹足法はハラ揉み修業の入り口という側面も持っていて、先述の弟子2人もそれなりに使えるようになってきた。この資産相続は曲がりなりにも進んでいる。と言ってもみっちり教えても数年かかっているのだから、これをどうやってより効率的に遺していくかが課題である。

三つ目は「体質改善ノウハウ」である。具体的には呼吸法や姿勢法、歩行法、食事法、丹錬法などがある。

日常生活の中で、我々はどのように暮らしていけばいいか。どのように体を使っていけばいいか。どのように鍛えていけばいいか。どのように食べていったらいいか。移り変わる時代の中で我々の心身もまた変化していく。この気付かぬうちに進む変化を感じ取り対処出来るかどうかで、人生は全く変わる。ハラを中心に心身に触れ続けてきた私ならではの理論とノウハウは、実際のところ貴重な資産ではないかと密かに思う。まだごく一部しか公開できていない。大半は私の頭の中にあるままなので、このまま死んでしまうとそれらも一緒に灰になる。

以上、三つが私の主な固有資産となる。もちろん金もいくらかはあると思うが、そんなものは微々たる話である。

さて、この資産たちをどう相続していくか。それが問題だ。

人間はいつ死ぬかわからない。いくら健康に気を付けても、車が突っ込んできたらどうしようもない。あと30年ほどは生きられるだろう、という楽観は無意味であり、時に有害でさえある。なるべく死なない努力はしたいが、突然の死の来訪に備えておくこともまた大事だだろう。

そういう意味において、「技術の伝承」というのは、我々チームわごいちにとって積年の議題となってきた。元気なうちになるべく技術を伝えようとする師と体得しようとする弟子と。また千照館の稽古を通してなるべく多くの人たちに、その断片でも伝えていこうという努力も行ってきたつもりではある。

しかし世間を見渡せば、誰もハラに真剣に向き合おうとしない時代である。美肌とかダイエットとか筋肉美とか、体の表面ばかりに気が行って、内部に意識をなかなか向けない。内部の中心であるハラへの関心を持つ人間が少ない。もう未来の大人達の心身は病み始めているのに。だからこそ、今の時代の人たちにハラの大切さを伝える努力と共に、後世に「ハラ文化」を残していく必要性を感じている。

「ハラ文化」を遺す。私にとって「ハラ文化」が私の資産という感覚はない。日本伝統の、社会全体の共有財産にしていかねばならない。無二のものであり、根源的なものである「ハラ文化」を構築し、伝える。命ある限りこの事業に私はまい進しよう。それが与えられた命に対する礼であろうから。

雪も解けてきたし、そろそろまた動き出さなくてはならない。雌伏の間に悟り得たことを糧とし、一からハラ文化を築いていこう。

しかし文化は一人では作れない。ハラを感じて生きたいという人間がどれほどいるだろうか。現代の危うさに気付き、未来を想い汗を流せる人間がどれほどいるか。これからどのような出会いがあるだろうか。その出会いの数と熱意の総量によって、ハラ文化の展開が決まってくるだろうと思う。

どんな状況になれども、例え一人になっても、与えられた命に礼を尽くしたい。

照千一隅、私はただその一心である。








三宅弘晃

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・階段四股100丹
・四股歩き100丹
・四股300丹


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by wagoichi | 2017-03-02 17:11 | 仕事

やりたいようにやらせてもらいます

明けましておめでとうございます。

この新しい一年をどう過ごそうか。そんなことを考え、少々手こずった年末年始だった。

と言うのは、近頃こんなことを言う人間が時折いるからだ。


「私も先生方のように自分の仕事に命をかけています」


何度かこんなことを言われて、たいていは同業者であるわけで、その度にハテナ?となる。

「俺らこの仕事に命をかけているのかいな?」

何度も言われるとさすがに気になり、試しに弟子たちに「君らは命かけてます!とかカッコいいこと言ってるんか」と聞いてみたら「いやいやいや」と???が増えるだけ。

「仕事に命をかける」とはどういう働き方になるのだろう。そんなことをこの年末年始に考えていた。



どう考えてみても仕事に命はかけられない。

心臓疾患を持っている人がわごいちに来たとして、自分の心臓を移植していいよとは言えない。どれだけたいせつなお客でもね。腎臓なら2個あるからいいかな、、、いや無理だ。

我々がお客のことを大事に思う気持ちは嘘じゃない。どこにも負けないという自負はある。でも命をかけて守ります、と言えばそれは嘘になる。だから言わない。

もちろんわごいちを見て「命を懸けている」と言う人が、我々に心臓移植までを期待して言っているのではないことはわかる。わかるからこそ、じゃあ何でこの人たちはいちいち私にそんなことを言ってくるのか?がわからなくて考えていた。



考えた末にようやく思い至ったのは、この人たちは一見命を懸けているような我々の働き方の根底にある何らかの感覚的なもの、あるいは思想的なもの、そう言うものの迫力要素を取り出して「命懸け」と言う言葉で表現したんじゃないだろうか、と言うことだ。

それであれば確かにわごいちには、他にはない独特の雰囲気と言うべきものがあるかもしれない。多くの人が「温かい空気」「凛とした雰囲気」「叱られるのは怖いけどそれが必要」そんなことを言う。こう言う雰囲気はあまりみないだろうとは思う。

この迫力要素を伴うわごいちの雰囲気は何から生まれているんだろう、そう考えが進んだときに少し面白いことが発見できた。それは自分達が何を求めて働いているのか、と言うことだ。

人は我々に向かい「お客さんや世間の困っている人たちのことを真剣に考えて下さってありがたいです。」と言って下さる。こう言われる度にありがたさの中にも畏れ多い気持ちがそわそわと心の中で浮遊する。確かに真剣に思う気持ちは存在する。しかしその気持ちと裏腹に全く違う気持ちもまた存在することを私は感じ取っている。

人は矛盾だらけの生き物だと言うことは日々痛感することである。人だけじゃなく、動物も植物であっても矛盾だらけ。生そのものが矛盾ではないかと思うくらいである。

しかし多くの人は自分の生の中の矛盾に戸惑うことが多々あるように思う。自分はこういう自分のはずなのに、どうしてこんなことを感じてしまうの?と自分の心を責め、認めようとしないことがある。

わごいちはおなかを触るから、深く深く触るから、人の中の矛盾も、その矛盾に悩み心身のバランスを崩すこともよく知っている。その無意味を体感的に知り尽くしている。だからこそ我々は、いやまだ弟子たちは未熟だから私はとしておくが、自分の中の矛盾に際立って寛容な人間になってしまった。

わかりにくいな。端的に言おう。

私は人様のために生きたい。未来の子達のために死にたい。これは紛れもない本心である。そして同時に自分のために生きたい。幸せに生きて幸せに死にたい。これもまた本心なのである。

私が毎日丹練をして技術向上に励むのは、お客のためである。そして同時に自分の為である。腕は誰にも負けたくないのだ。誰かに負けていると言うのが耐えられないから丹練をしているのだ。

弟子たちにはうまくなってほしい。弟子への指導は真剣であり、少しでも本当の技術を伝えてやりたいと思って指導している。が同時に、弟子には負けたくない自分もちゃんといる。最高の教えを授けながら、自分はそれ以上の成長を遂げていないと不安になる。(そんなことはまだ一度もないが、、、、)

先ほどテレビで筋肉番付をやっていたが、ライバルがクリアしたとき互いに拍手をする。嬉しいけれど悔しい、どちらも嘘じゃない、あれも一つの純粋なる矛盾と言っていいのではないか。


皆さんは私に多くを求め、深みを期待する。陰で仙人と言われているとも漏れ聞いた。しかしそれは私のごく一部であって、私のむき出しの生存本能についてはどれ程知られているだろう。

私が率いるわごいち軍団は、おそらく皆さんが思っているよりもはるかに本能をそのまま大事にしている。ひがみや嫉妬も押し潰さない。ゴミ箱に押し込めないで、ちゃんとまな板の上にあげて料理する。自分を知り、自分の力を活かすために。そのためにはありのままの自分を認めなくては始まらないのだ。我々にはむき出しの生存本能が必要なのだ。

屋号の「和合一致」はそういう意味も持つ。

そういう意味ではわごいちは非常に原始的で人間的で、ある意味子供のような幼稚性を持つかもしれない。そんなことを思った。

ただわごいちが変わっているのは、その幼稚性が徹底していることだとも思う。「役に立ちたい。そして勝ちたい。」わごいちのこの一心は分別がつき始めた子供そのままであり、大人の分別は徹底的に排除される。言い訳はわごいちの仕事では許されない。

我々は本気で癌をなんとかするつもりでいる。そして本気で世界一であり続けようと思っている。我ながらなんと幼稚なことよと微笑んでしまうくらいに。

でも和合一致を掲げる以上、これで行くしかないのだろう。


「先生方のように命懸けで仕事に向き合いたい」という人はおそらく、この我々のむき出しの幼稚性が醸し出す迫力を感じ惹き付けられているのかもしれない。私もそうありたいと感じたのかもしれない。

また少し我々の取り組みが美化されている気配を感じるのは、多分にそこにお世辞を含むにしても、ここ数年の我々が「人のために」の方に片寄りすぎた反響なのかもしれない。「自分のために」と言うむき出しの生存本能に雲が掛かってしまっていたのかもしれない。

整体を施術するにしても、丹足を指導するにしても、講演するにしても、これでは良くない。和合一致のバランスを崩している。

そんな風に考えて、今年のテーマにようやく行き着いた。

わごいちは原点である和合一致の精神を今一度大事にする。人を思う気持ちも、自分を思う気持ちも、どちちも大事に育てていく。

その上で「人のために」へと傾きすぎた舵を今一度「自分のために」へと切りなおそう。



「やりたいようにやらせてもらう」



と心に刻み、一日一日を大事に生きていこうと思う。

どうぞ本年も宜しくお願いします。










三宅弘晃

emoticon-0179-headbang.gif今日の丹練
・四股700丹


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by wagoichi | 2017-01-02 01:59 | 仕事

西郷さんの仕え方


今日は、朝のお茶の時間にスタッフたちに話した雑談から。(内容は私の勝手な解釈である)


・・・



最近西郷隆盛に関するニュースをいくつか読んだ中で、西郷さんが犬を大事にする理由について興味深い逸話があった。

趣味の猟で役に立つからとか、刺客の接近を犬が察知してくれるからとか、そんな理由を読んだことはある。お座敷にも一緒にあげたとか、うな丼を2人前注文して犬と1人前ずつ食べたとか、十数匹も飼っていたとか、西郷さんの犬への愛情を示すエピソードは多い。

そんな西郷さんの犬好きの理由についてこんな説があるという。西郷さんは主人に忠誠を尽くす犬の姿をみて、自分も犬に負けないようにしっかりと仕えよう、と自分を固く戒めていたというものだ。

真偽はともかく、なるほどと妙に納得した。


明治維新で大事業を成し遂げ、陸軍大将にまで登りつめながら、自分が作ったと言っても過言ではない明治政府を下野し、果ては西南戦争で敗死するという不思議ともいえる西郷さんの人生の変遷。それがこの犬に学ぶというエピソードを聞いて、腑に落ちるところがあった。

思うに西郷さんは「仕える人」だったのではないだろうか。

我々は、あまりの偉業につい偉大なリーダー像を西郷さん対して押し付けていたのかもしれない。西郷さんは常に遠大なる国家観を持ち、それに基づいて皆を導いていくリーダーであると決めつけていたのかもしれない。

しかしその実、西郷さんは最初から最後まで終始一貫してリーダーではなく「仕える人」であったのではないか。仕えることで生き甲斐を得る人であり、導くのは西郷さんの本分では無かったのではないか。そんな西郷さんが仕える相手として認めたのは、結局最後まで島津斉彬公ただ一人しかいなかったのでは・・・・

そんなことを思った。



斉彬公が無くなった時、西郷さんは「仕える人」を失った。それまで斉彬公の理想を実現することに生き甲斐を得てきた男が、「仕える」という生き方自体をも失ってしまったことを意味した。

その後入水自殺を図り、島流しの刑をうけ、再び表舞台に復帰してからの西郷さんは、葛藤の中であがいていたようにも想像できる。斉彬公はもうこの世にいない。しかし探しても他に自分が仕えたいと感じさせる人物はいない。

もう自分の人生は終わったという諦観と、友や全国の士族からの期待。その狭間で揺れ迷いながら、ただひたすらに亡き斉彬公の意向を辿るように倒幕という大事業を成し遂げること、そこに自分の生き甲斐を得ようとした。

この斉彬公が亡くなってから明治維新までの大活躍の期間は、実は西郷さん自身にとってはもはや半分死に体としての活動ではなかったか。それはつまり主人を無くした犬が、主人の思い出を残す家を守るようなものだったのではないか。待てども待てども主人は帰ってこず、自分を使いこなせる新しい主人も現れず、神輿の上に担ぎ上げられながら心の中で慟哭を繰り返す日々ではなかったか。それならその後の下野、そして西南戦争へと続く不可解ともいえるいきさつが説明できるのではないか。

実は西郷さんに国家観というような物は初めから無く、唯一斉彬公に与えられ、そして公と共に失い、あとは時代のムーブメントに不本意に担ぎ上げられた人生であったのかもしれない。

そんな風に思った。


かの大西郷にしてこの「仕え方」である。これだけの人が「仕える」人生をを求め続けた。だからこそあれだけの人望を集めたとも言えはしまいか。もしそうであるならば「仕える」とは一体どういうものなのだろう、そんな話をスタッフたちにした。








・・・以下本ブログ用の追記・・・





仕えることは損な事である。仕えるのは利用されることである。人に仕えようなどと危いことはなるべく考えないで、自分の権利をしっかりと守らないといけないのである。

今はそんな時代になりつつある。


確かに、私利私欲に憑りつかれたリーダーに仕えることは危険でさえある。ブラック企業にしがみついて人生を無茶苦茶にされるよりは、ホワイトな企業に転職して適度に割り切って働くほうが無難であるのは間違いがない。給料をもらった分だけ働く。お金を払ってもらった分だけサービスする。団体の利益より個人の生計を大事にする。独立・自立に近づけていく方がいい。多くの人がそう考え、だからこそ社会はそういう方向に進んでいる。


しかしこういう人たちが1つだけ見落としていることがある。

社会の中の人間関係に於いて、「自立」は非常に危うい立場であるということだ。「仕える人」と「導く人」(つまりリーダー)の共生関係に対して、「自立」という独り立ちは一見自由でありながら実はとても不自由であるという事実である。


「自立」それは素晴らしい響きに聞こえる。嫌味な上司や、尊敬できない経営者や、支配的な伴侶や親にうんざりしきっている人にとっては、そこからの「自立」はそれだけでバラ色の将来が垣間見えるような感じがすることであろう。

その一方で、今の状況に悩みながらも脱却できていない現状があるという事は、それ相応の理由があるという事である。経済的な理由、人間関係のしがらみ、道義的な問題、などがあるかもしれない。しかし突き詰めて考えると、「思い切って自立できない自分がいる」ということになるのではないか。

これがとても大事なポイントとなる。

自分は今の生活にうんざりしているのに、この生活から脱却したくて仕方がないのに、それでも脱却の決意を固めることができない。決意をしても行動に移すことができない。これはどういうことかと言うと、それはその人が「仕える人」であるということを示しているのではないだろうか。


日々人々と話して思うのは、日本人の多くは「仕える人」であるに違いないという感触だ。斉彬公の様な生来の「導く人」は非常に希である。西郷さんのような「仕える人」のタイプはゆうに99%を占めているように感じる。

1%の「導く人」は迷わずリーダーとなって周りを導けばいいし、多くの場合実際にそうしている。面白いことに「導く人」は、自分が「導く人」であることを知っていて、迷わず「導く人」になっている。


問題は「仕える人」である。

「仕える人」のうち、何割かの人は気質に反して「導く人」になってしまっている。ならされている人もいる。こういう人たちは大変な苦労をしながら、徐々に学習して「導く人」になっていくこともある。

しかしこういう人はまだ少ないようであり、「仕える人」の多くは「仕える」ことを嫌い、さりとて「導く」ことにも挑めず、その中間で悩み苦しんでいる。悩み苦しみ、その結果として「独立・自立」という道を採ろうとすることも多い。でも実は中途半端な「自立」ほど虚しく弱い立ち位置はない。

人は「導く」と「仕える」の関係によって助け合い、互いに高め合うことができる。類まれな感性や才能を持った人間が、それを仕える人に提供する。それを受け取る人間は、一心な努力をその返礼として導く人に差し出す。それぞれの適性を無理なく発揮できる集団はやはり充実する。

一方の「独立・自立・孤立」では、所詮1人の力である。そんな人間が寄り集まっても足し算になっても掛け算にはならない。結局やりたいことがなかなか実現できず、1人で悶々と悩んだり、仲間との不和に苦しんだりして、結局不自由な活動となる。

「仕える人」は、仕えるのが嫌だと言ってむやみに自立を求めたり、表面的に仕えながら心は自由であろうなどという傲慢な生き方を選ばないように気を付けないと、何をしているかわからないような毎日を過ごすことになりかねない、と多くの人を見て私はいつも危惧している。



思うに、「仕える人」が「仕えることに徹する」ことができれば、人生はとても豊かになる。


若き日の西郷さんが、斉彬公のお庭番として公の想いを聞き、共に悩み、手足となって駆け回った日々がどれほど充実した時間であったろうかと想像するだけでこちらの胸が熱くなる。この胸の高鳴りと火照りは、心底から仕えたことのある人ならば自分のことのように想像できると思う。


しかしわずか100年ちょっとで世の中はすっかり変わってしまって、「導く」「仕える」という関係性が徐々に忌み嫌われ出している。その狭間の所で、「自分の能力を生かす」とか「自分の個性を生かす」とか、「自立」の価値観に覆われた社会になってきている。



でもここはもう一度立ち止まりたい。


あの大西郷でさえ、仕えることに徹した。斉彬公という「この人こそ」という人に出会ったら、もうその人に仕えることに自分の人生を投げ出すほどに仕えきった。

西郷さんは自分の写真を撮るのを嫌がったとも聞く。(だからいろいろな本物でない西郷さんの顔写真が出回っているという。)「自分」を打ち出すのを嫌い、ただひたすら仕えようとし、そこに自分の成長と人生の悦びを見出してきた人生だったんじゃないだろうか。



今一度じっくりと自分を見つめ直したい。自分は「導く」のか。「仕える」のか。決して導くのが偉いというものではない。楽なものでもない。「導く」のは導くのでまた苦しく寂しく厳しいこともある。また「仕える」のは決してへりくだったり媚びる事ではない。毅然として心強く「仕える」覚悟が必要である。

自分を知る。自分を知って、自分を活かす相手を求める。自分だけの自分ではなく、相手と繋がる自分でありたい。そんな相手が見つかれば一心にただ一心に自分の本分に徹し、相手と心をあわせ力をあわせ理想に向かって努力する。



これ以上の生き方があれば、私に教えてほしい。








三宅弘晃

emoticon-0179-headbang.gif今日の丹練
・四股500丹
・旋風重刀200丹





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by wagoichi | 2016-12-25 15:56 | 仕事



ようやく癌解説2つ目完了。3つ目が・・・3つ目が大変なんだよ。テーマは決まっているが、どう伝えたらいいのか。。。。ああぁぁ
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