揉道8.勝負どころ


修業を始めて9か月。異例の早さで開業が決まった。私も人の子、やはり開業はドキドキした。

とは言え、修行1年をめどに開業しようという考えは元からあり、人の3分の1の短さで開業する為には人の3倍の修業が必要という考えで準備はしていた。


修行の一環で続けていた出張整体は思いのほか反応が良かった。ほとんど確実にリピートしてもらえたし、毎週通った重症の寝たきりのおばあちゃんは小走りできるくらいまで元気になった。少しずつ経験と自信をつけていった。

最後の腕試しと、とある出張整体グループの採用試験をうけたら研修不要で即現場に出された。かつてない抜擢だったらしい。さらにいきなり支部長に任命された時はびっくりした。正直周りの評価にたじろぐことの方が多かった。




そうこうするうちに開業が決まり、「心斎橋たんりき」を開業したのは2002年の1月のこと。

桜井先生でさえ苦戦していた後を継いだので前途は厳しかったが燃えていた。人生で初めてもった自分の城である。人生で初めて人も雇った。会社員では決して経験できない人生に興奮していた。

3か月後には予約がパンクするほどの人気整体院になった。友人たちにも本当に助けられた。そしてやはりハラを揉むというのが当たったのだ。当時はカイロプラクティックが流行りで、ハラを揉むというと皆が変な顔をしたものだが、結果的には私の直感が当たったのだ。多くの人がハラに悩みを抱えてやってきた。深夜までびっしり働いた。



そんな折、縁談が舞い降りてきた。

「新日本延命医学療法」という凄い民間療法の先生が居るが、君の所にその先生を迎えて技術を伝承しないかと、そんな話を頂いた。

「新日本延命医学療法」(以後略して延命学)とは故宮原一男先生が拓いた民間療法で、その技術の凄さまじさは他に類をみないものだったと言う。ハラや脇や太ももを中心に全身を揉み解していく。松下幸之助もお客だったとか、温泉治療旅行についてきてもらった人が一晩で20万(戦後間もない時である)払ったとか、そういう話も残る。そんな延命学の噂をかねてから聞いていた。

どんな施術をするんだろうと興味を持った私に、往時の宮原先生の施術動画を見せてくれる人がいた。正直に告白すると全然わからなかった。凄そうな感じはひしひしと伝わるのだが、何をしているのかが全然分からない。当時のひよこの私には次元が違いすぎたのだと思う。それでも強烈な印象だけが残った。

桜井先生からも延命学の話は聞いていた。丹力の手技と足圧は延命学に由来するのだから当然である。「桜井先生は宮原先生の技術をどうみられるのですか」と訊いてみたところ、「何人か人を殺してるんちゃうか。」と一言、独特の言い回しをされた。

まさか本当に人を殺したわけではないだろうが、患者さんの命を懸けるような踏み込んだ施術を重ねてこないとあの域には達せない、ということを桜井先生は言われたんだと私は理解した。桜井先生も無条件で認めていた先生だった。



さてそんな延命学が私の所にやってきた。しかも技術を教えてくれるという。まさか!という感じ。自分の運の周りに自分で驚くしかない展開だった。

かつて宮原先生は日本各地で技術指導をされていたので、現在でも延命学を名乗る先生はちらほらといるのだが、正当な技術を伝えたのはただ一人実の息子だという。他の延命学は真似事であるという。その正統後継者である息子さんが、人を介して私と組まないかと話を持ち掛けてきた。

宮原先生(息子さん)は正統後継者だけあって「技術は凄い」が「人間がよろしくない」と評判は芳しくなかった。そこでひよこ整体師で「技術はまだまだ」だが「人が集まってくる」私と宮原先生が組めばうまくいくのではないかと考えた人がいたのだ。

なかなかよく考えたものだ。

私もお客さんも多少は混乱するだろうが、院の技術が向上するのは間違いない。当時の私には手に負えない人もまだまだ居たから、そういう人にとって宮原先生は救いになるだろう。宮原先生も私がサポートすれば心置きなく施術活動ができるだろう。何より当時の私にとって「延命学の技術」は垂涎の的であった。

我々のような職人にとって技術は一番の宝である。本物の技術を学び取る、これに勝る魅力はない。どんな犠牲を払ってでも、どれだけ金を積んででも、本物の技術を学び取らねば将来は開けない。開業3か月目に、私の将来を決定する大きな勝負どころがやってきた。



紹介者が宮原先生を私の所に連れてきた。

大きな手だった。握手をすると肉厚ですこしゴツゴツしていた。挨拶もそこそこに宮原先生は私の体を整えだした。お互い施術家だから言葉はいらない。技で語ろうということで、私もそれは有り難く臨むところだった。

宮原先生から見ると当時の私はひよっこで相手にならない。まず自分の力量を見せつけようとされているのもよくわかった。それでも私は貴重な機会に感動していた。自分は本当に運があると神様に感謝したい気持ちだった。

しかし一通り整えた後「こういう風にやるんやで」と言われた時に、意に反して熱が冷めている自分に気が付いてびっくりしたのである。



以前ビデオで見た故宮原一男先生とは別物だった。正統な後継者ではあったろうが、息子さんをもってしても全てを伝えられていないか、学び取られていないのではないか、ということを何故か私は確信をもって感じてしまった。

直感であった。直感以外の何物でもなかったが、宮原一男先生はここにはいないと感じた。そのレベルならおそらく自分は自力で乗り越えられると思った。いや乗り越えなくてはならない。そう感じた自分が不思議だった。

くどいようだが、息子さんも相当な腕である。少なくとも、父宮原先生を除いてこの息子さんに太刀打ちできる延命学療法家は当時も今もいないはずである。

それでも私はここじゃない、と思った。



せっかく人生をかけて整体の道に入ったのだ。迷うような決断はしてはいけない。勝てると思った自分の直感を頼りに乗り越えよう。そしてこれからは宮原一男先生に、本物の延命学に本気で挑もう。そう決意した。不思議なもので息子さんの施術を受けたことで、ビデオ中の宮原一男先生の輪郭が見え始めた気がした。

この縁談は断った。

院の家主であった紹介者が破談を了解してくれず、最終的に「それなら私がでます。」といってお客さんを連れて出ていくことになって色々と大変だったが、あの時は人生の大きな岐路だったと思う。




人生には逃してはならない勝負どころがある。

今こうして振り返る中で、私はあの時に勝負どころを間違わなかったんだと再確認した。



私が挑もうと決めた相手は「延命学創始者 宮原一男先生」その人だった。







つづく







三宅弘晃

080.gif今日の丹練
・四股300丹
・木刀200丹


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by wagoichi | 2017-04-27 04:29 | 人生