照千一隅への道のり

体温と肚温


昨夜、夢現の狭間で「そういうことか」と思い至ったことがある。今日はそれを少し書いてみようと思う。

人間には2種の体温があるという捉え方である。

体温については我々はなじみ深く知っている。体温計で計ると凡そ36前後、体内ではもう少し高いが、それを我々は体温と認識している。しかしもう一つの温度を我々はもっているのではないか、そう思ったのである。私は「肚温」とそれを呼ぶことにした。


例えば私は、高校と大学と会社でとても不自由な思いをした。周りの人間から「アツい」と言われた。時に賛美のニュアンスもあったが、多くは非難めいた言われ方をしてきた。仲間内から浮くことも多かった。だから自分を抑えることも多かった。

逆にパチンコや土方のバイト仲間、あるいはナンシーなど外国の人達との付き合いにおいては、誰も私のことを「アツい」とは言わなかった。自分は素でいることできた。


私はいわゆる体温も高い。私が座っている座布団を人に貸すとびっくりされる。座布団がホカホカと温まっているからだ。電車で私の後に座った人がびっくりしていることも良くある。「あら、このシートってヒーターが入ってるのかしら?」っていう顔を見て、にやりとしながら私は電車を降りる。

しかし肚温はそういうものではない。より精神的であり、より人格的なものがイメージに近い。


もうちょっと違う角度から考えてみよう。

例えばわごいちで私にハラを揉まれる人たちが言う。「おなかがすごく熱くなって気持ちいいです。」これは何をしているかと言えば、物理的にハラの中の血管の流れを促進し、結果として生理的に体温を上げているのである。

しかし私の中では、そういう物理や生理だけではなく、それ以外の感性のイメージがある。

私の施術を受けに来る人は、ハラの鍋に冷えたスープを入れてやってくる。私はそこに自分のハラの鍋からアツアツのスープを注ぎ込む。そして相手のハラを温かいスープで満たすのである。そういうイメージを最近抱くようになってきた。

このスープこそが「肚温」ではないかと思い至った。

体温には上限下限がある。30度では動けないし、50度では死んでしまう。しかし肚温は極めて自由度が高く、20度の人もいれば90度の人もいる。そんな風に思う。



その上で、人間とはなにとはなく相手と自分の肚温を比較して生きているのではないか、というのが私の仮説である。自分と相手の肚温を感じ、比較し、その温度差によって交際の距離を測っているのではないだろうか。

学生時代や会社員時代の私と周りの人たちの間には、少なからぬ温度差があった。だから「アツい」と疎まれることもあったし、それが嫌だから温度を隠して付き合ってきたように思い出される。

そういう仲間内では、いつも必ず私を冷やかす人間が居たようにも思う。なぜか分からないが私を目の敵のように冷やかし、からかい、気持ちをくじこうとする人間がいた。ずっとなぜか分からなかったが、肚温に思い至った今、その理由がはっきりとわかる。

彼らは私の肚温の高さを感じ取り、比較して自分の肚温が低く、また上げようがないとあきらめるゆえに、私の肚温を下げようと冷やかすのだ。本能的に肚温のバランスをとろうとしているのだ。そうでないと彼ら自身がつらくなってしまうから、彼らも必死だったのだ。

実際に肚温は人間関係において決定的な要素となるに違いない。




昔、とある女性が私にメールを送ってきた。大きなトラブルに心身が痛んていて肚温は極めて低い状態だったように思い出される。彼女は私を求め信じてついてきて、わごいちに通い、千照館に通い、スタッフにまでなった。私の元で懸命の修業を重ねるうちに彼女は力をつけ、肚温が別人のようにまで上がっていった。

そこで彼女は問題を抱えたのである。ご主人との不和であった。私がみるに、もともと同じくらいの肚温であった夫婦において、奥さんが一人肚温を上げていくと問題を抱える。肚温が低い人間にとって、肚温が高い人間はもろ刃の剣となる。心強いパートナーとなるか、自分に劣等感を抱かせる相手となるか、である。その分岐点は、その本人による。

体温が同じでも、肚温が違うと人は対等では居られない。たとえ夫であっても、たとえ目上であっても、肚温に対して人は無条件の威圧を受ける。それをどう受け止めるかは人それぞれになる。

彼女のご主人は、猛烈な抵抗を示した。自分の肚温を上げる事よりも、妻の肚温を下げようとしたようであった。わごいちのことをカルトとさえ罵ったそうである。ご主人は肚温のギャップにそこまで追い詰められたのだ。彼女はご主人を思い私の元を去った。


まったく同じような道をたどったのが、今弟子をしている紙鳶である。彼女の場合は夫ではなく親兄弟であるが、彼女が肚温を上げるにつれて家族との付き合いが変わりつつあることは、わごいち通信やFBで彼女自身が書いているとおりである。


他にもそういう話には枚挙にいとまがない。

私の肚温に触れ、自分の肚温をあげている人は、大なり小なりこれまで同じ肚温で仲良くしてきた人たちとのギャップに苦慮しているように見える。冷やかされる人もいれば、非難される人もいれば、逆に周りの人が認めてくれる人もいる。


人間が変わるというのはそういうことなのだろうと思う。人間が変わるというのは、表面的なキャラクターが変わるという事だけではなく、その奥底の肚温の変化があるということではないだろうか。

肚温が上がってこそ、本当の意味で人間が変わったと言えるのではないだろうか。


変わるというのはある意味痛い。よく人に誤解されるが、私だって痛みは感じている。これまで仲間だった人と疎遠になる。「あいつは変わった」とか「見捨てられた」とか言われることもある。痛くないわけがない。痛みを感じないわけでは決してない。


私は会社を出てこの道に入ってから一貫して肚温を上げようと努めてきたのだと、今はっきりと認識する。

この10数年、私の元には多くの人が私の肚温に触れようとやってきた。私の肚温を注いでほしいとやってきた。その時その時の肚温で私は人を温めようとしてきたが、時に温めきれない人がいた。だから私はさらに自分の肚温を温める必要を感じた。

自分の肚温が高まるにつれ、救える人が増えてきた。私の肚温でしか救えない人が私の元で救われていった。それはそれまでの仲間を失う痛みを受け入れてでも価値のあるものだった。だから私は痛くとも肚温を高める丹練を欠かさないでいる。


どう生きようがその人の考え一つである。多くの人と同じくらいの肚温を保つのも私は決して否定しない。変化の痛みに耐えられない人を責める気持ちももはやない。

ただ私自身は、まだまだ肚温を高めていきたいと思う。冷やかす人間はかえりみない。痛くても、自分に不満足なまま途中で止まらず、心のままに前に進みたいと思う。そして痛みの先の新しい世界を見たいと思う。




さて今日は久々に夢から書きなぐったが、そろそろ締めよう。



どうやら人間には二種の体温がある。

皮膚の上から計る体温もあるが、命の源で燃える肚温と言うものもある。これを知っておくと対人関係をより深く分析できるようになるのではないか。

そんな今日の発見である。







三宅弘晃

080.gif今日の丹練
・四股300丹


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by wagoichi | 2017-04-26 15:21 | 戯言
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「原点が導くこれから」という感じでしばらく探り書きです。

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