照千一隅への道のり

西郷さんの仕え方


今日は、朝のお茶の時間にスタッフたちに話した雑談から。(内容は私の勝手な解釈である)


・・・



最近西郷隆盛に関するニュースをいくつか読んだ中で、西郷さんが犬を大事にする理由について興味深い逸話があった。

趣味の猟で役に立つからとか、刺客の接近を犬が察知してくれるからとか、そんな理由を読んだことはある。お座敷にも一緒にあげたとか、うな丼を2人前注文して犬と1人前ずつ食べたとか、十数匹も飼っていたとか、西郷さんの犬への愛情を示すエピソードは多い。

そんな西郷さんの犬好きの理由についてこんな説があるという。西郷さんは主人に忠誠を尽くす犬の姿をみて、自分も犬に負けないようにしっかりと仕えよう、と自分を固く戒めていたというものだ。

真偽はともかく、なるほどと妙に納得した。


明治維新で大事業を成し遂げ、陸軍大将にまで登りつめながら、自分が作ったと言っても過言ではない明治政府を下野し、果ては西南戦争で敗死するという不思議ともいえる西郷さんの人生の変遷。それがこの犬に学ぶというエピソードを聞いて、腑に落ちるところがあった。

思うに西郷さんは「仕える人」だったのではないだろうか。

我々は、あまりの偉業につい偉大なリーダー像を西郷さん対して押し付けていたのかもしれない。西郷さんは常に遠大なる国家観を持ち、それに基づいて皆を導いていくリーダーであると決めつけていたのかもしれない。

しかしその実、西郷さんは最初から最後まで終始一貫してリーダーではなく「仕える人」であったのではないか。仕えることで生き甲斐を得る人であり、導くのは西郷さんの本分では無かったのではないか。そんな西郷さんが仕える相手として認めたのは、結局最後まで島津斉彬公ただ一人しかいなかったのでは・・・・

そんなことを思った。



斉彬公が無くなった時、西郷さんは「仕える人」を失った。それまで斉彬公の理想を実現することに生き甲斐を得てきた男が、「仕える」という生き方自体をも失ってしまったことを意味した。

その後入水自殺を図り、島流しの刑をうけ、再び表舞台に復帰してからの西郷さんは、葛藤の中であがいていたようにも想像できる。斉彬公はもうこの世にいない。しかし探しても他に自分が仕えたいと感じさせる人物はいない。

もう自分の人生は終わったという諦観と、友や全国の士族からの期待。その狭間で揺れ迷いながら、ただひたすらに亡き斉彬公の意向を辿るように倒幕という大事業を成し遂げること、そこに自分の生き甲斐を得ようとした。

この斉彬公が亡くなってから明治維新までの大活躍の期間は、実は西郷さん自身にとってはもはや半分死に体としての活動ではなかったか。それはつまり主人を無くした犬が、主人の思い出を残す家を守るようなものだったのではないか。待てども待てども主人は帰ってこず、自分を使いこなせる新しい主人も現れず、神輿の上に担ぎ上げられながら心の中で慟哭を繰り返す日々ではなかったか。それならその後の下野、そして西南戦争へと続く不可解ともいえるいきさつが説明できるのではないか。

実は西郷さんに国家観というような物は初めから無く、唯一斉彬公に与えられ、そして公と共に失い、あとは時代のムーブメントに不本意に担ぎ上げられた人生であったのかもしれない。

そんな風に思った。


かの大西郷にしてこの「仕え方」である。これだけの人が「仕える」人生をを求め続けた。だからこそあれだけの人望を集めたとも言えはしまいか。もしそうであるならば「仕える」とは一体どういうものなのだろう、そんな話をスタッフたちにした。








・・・以下本ブログ用の追記・・・





仕えることは損な事である。仕えるのは利用されることである。人に仕えようなどと危いことはなるべく考えないで、自分の権利をしっかりと守らないといけないのである。

今はそんな時代になりつつある。


確かに、私利私欲に憑りつかれたリーダーに仕えることは危険でさえある。ブラック企業にしがみついて人生を無茶苦茶にされるよりは、ホワイトな企業に転職して適度に割り切って働くほうが無難であるのは間違いがない。給料をもらった分だけ働く。お金を払ってもらった分だけサービスする。団体の利益より個人の生計を大事にする。独立・自立に近づけていく方がいい。多くの人がそう考え、だからこそ社会はそういう方向に進んでいる。


しかしこういう人たちが1つだけ見落としていることがある。

社会の中の人間関係に於いて、「自立」は非常に危うい立場であるということだ。「仕える人」と「導く人」(つまりリーダー)の共生関係に対して、「自立」という独り立ちは一見自由でありながら実はとても不自由であるという事実である。


「自立」それは素晴らしい響きに聞こえる。嫌味な上司や、尊敬できない経営者や、支配的な伴侶や親にうんざりしきっている人にとっては、そこからの「自立」はそれだけでバラ色の将来が垣間見えるような感じがすることであろう。

その一方で、今の状況に悩みながらも脱却できていない現状があるという事は、それ相応の理由があるという事である。経済的な理由、人間関係のしがらみ、道義的な問題、などがあるかもしれない。しかし突き詰めて考えると、「思い切って自立できない自分がいる」ということになるのではないか。

これがとても大事なポイントとなる。

自分は今の生活にうんざりしているのに、この生活から脱却したくて仕方がないのに、それでも脱却の決意を固めることができない。決意をしても行動に移すことができない。これはどういうことかと言うと、それはその人が「仕える人」であるということを示しているのではないだろうか。


日々人々と話して思うのは、日本人の多くは「仕える人」であるに違いないという感触だ。斉彬公の様な生来の「導く人」は非常に希である。西郷さんのような「仕える人」のタイプはゆうに99%を占めているように感じる。

1%の「導く人」は迷わずリーダーとなって周りを導けばいいし、多くの場合実際にそうしている。面白いことに「導く人」は、自分が「導く人」であることを知っていて、迷わず「導く人」になっている。


問題は「仕える人」である。

「仕える人」のうち、何割かの人は気質に反して「導く人」になってしまっている。ならされている人もいる。こういう人たちは大変な苦労をしながら、徐々に学習して「導く人」になっていくこともある。

しかしこういう人はまだ少ないようであり、「仕える人」の多くは「仕える」ことを嫌い、さりとて「導く」ことにも挑めず、その中間で悩み苦しんでいる。悩み苦しみ、その結果として「独立・自立」という道を採ろうとすることも多い。でも実は中途半端な「自立」ほど虚しく弱い立ち位置はない。

人は「導く」と「仕える」の関係によって助け合い、互いに高め合うことができる。類まれな感性や才能を持った人間が、それを仕える人に提供する。それを受け取る人間は、一心な努力をその返礼として導く人に差し出す。それぞれの適性を無理なく発揮できる集団はやはり充実する。

一方の「独立・自立・孤立」では、所詮1人の力である。そんな人間が寄り集まっても足し算になっても掛け算にはならない。結局やりたいことがなかなか実現できず、1人で悶々と悩んだり、仲間との不和に苦しんだりして、結局不自由な活動となる。

「仕える人」は、仕えるのが嫌だと言ってむやみに自立を求めたり、表面的に仕えながら心は自由であろうなどという傲慢な生き方を選ばないように気を付けないと、何をしているかわからないような毎日を過ごすことになりかねない、と多くの人を見て私はいつも危惧している。



思うに、「仕える人」が「仕えることに徹する」ことができれば、人生はとても豊かになる。


若き日の西郷さんが、斉彬公のお庭番として公の想いを聞き、共に悩み、手足となって駆け回った日々がどれほど充実した時間であったろうかと想像するだけでこちらの胸が熱くなる。この胸の高鳴りと火照りは、心底から仕えたことのある人ならば自分のことのように想像できると思う。


しかしわずか100年ちょっとで世の中はすっかり変わってしまって、「導く」「仕える」という関係性が徐々に忌み嫌われ出している。その狭間の所で、「自分の能力を生かす」とか「自分の個性を生かす」とか、「自立」の価値観に覆われた社会になってきている。



でもここはもう一度立ち止まりたい。


あの大西郷でさえ、仕えることに徹した。斉彬公という「この人こそ」という人に出会ったら、もうその人に仕えることに自分の人生を投げ出すほどに仕えきった。

西郷さんは自分の写真を撮るのを嫌がったとも聞く。(だからいろいろな本物でない西郷さんの顔写真が出回っているという。)「自分」を打ち出すのを嫌い、ただひたすら仕えようとし、そこに自分の成長と人生の悦びを見出してきた人生だったんじゃないだろうか。



今一度じっくりと自分を見つめ直したい。自分は「導く」のか。「仕える」のか。決して導くのが偉いというものではない。楽なものでもない。「導く」のは導くのでまた苦しく寂しく厳しいこともある。また「仕える」のは決してへりくだったり媚びる事ではない。毅然として心強く「仕える」覚悟が必要である。

自分を知る。自分を知って、自分を活かす相手を求める。自分だけの自分ではなく、相手と繋がる自分でありたい。そんな相手が見つかれば一心にただ一心に自分の本分に徹し、相手と心をあわせ力をあわせ理想に向かって努力する。



これ以上の生き方があれば、私に教えてほしい。








三宅弘晃

080.gif今日の丹練
・四股500丹
・旋風重刀200丹





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by wagoichi | 2016-12-25 15:56 | 仕事
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「原点が導くこれから」という感じでしばらく探り書きです。

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